11
ミシェル。
それが、ウェーバーが愛していた人の名前だった。
この星に生まれ落ち、自分の足で歩けるようになって、色々なものを目にして、そうして大人になって、生身の体を捨て、それからずっと長い時間を生きて来た訳だが、二人はそのほとんどの時間を共にしていた。
「ミシェルは、とにかく星が好きだった」
彼らが生まれた土地の近くには丘があった。ミシェルはその丘から見上げる夜空が好きで、度々彼女は夜遅くに家を抜け出しウェーバーと一緒に夜空を見上げに行っていた。
だからこそ、生まれ育った場所が海に沈むという話を聞いた時、ミシェルはとても落ち込んだ。地上を捨て地下の都市へ移る日の前日、当然のように彼らは丘の上に行き、目にするのは最後になるかもしれない夜空を見上げ、夜明けと共に丘から見上げる星々に別れを告げた。夜が明けるまでの間、ウェーバーは泣き続けるミシェルの肩を支え続けた。
ウェーバーは一度、ミシェルに「どうしてそんなに星が好きなのか」と尋ねたことがある。でも、その時聞いた彼女の答えを、ウェーバーはもう忘れてしまった。
覚えていることがあるとすれば、彼女はとにかく自分がここにいたという証を残したいと仕切りに話していたということと、いつかもう一度本物の夜空を見ると願っていたことだ。
ミシェルの役割はこの星の観測をすることだった。ミシェルは地上の海が引きもう一度夜空を見上げることが出来る日を待ち望むように役割し続け、またウェーバーは地下都市での生活に必要不可欠となるインフラの整備を、いつか来るその日まで生き続けられるようにと願いながら役割し続けた。
「天蓋に星を浮かべたのだって、ミシェルの為だったんだ」
パラボラアンテナから送られてくるこの星のデータから、この星の行方を想像すればするほど、再び地上に出られるまでどれほどの時間が必要なのかを知る。
ウェーバーは、夜な夜なミシェルが寝室の窓から真っ暗な天蓋を見上げているのを知っていた。そんな彼女を見て、せめて偽物でも構わないからこの地下都市にも夜空を浮かばせたいと思った。
天蓋に夜空を。
それは、彼にとってこれまでしてきた中で一番過酷な仕事であると共に、これまで生きて来た中で一番記憶に残っている出来事であった。
地下都市都市での生活を支えるという日々の仕事の後に、毎日少しずつ天蓋に夜空を浮かべる作業をする。
日々一緒に仕事をしている仲間に思いを打ち明けて手伝ってもらい、地下都市で一番偉い人を説得し、時には研究者の力を借り、それはもう毎日毎日、とにかくミシェルのことを思って彼は駆け抜けた。
夜中、夜空の動きを制御するプログラムのテストのために実際に天蓋を使って夜空を浮かべてみた。無数の小さな明かりが点滅するだけ。パッと全体が光るだけ。真っ青なエラー画面が天蓋一面に表示されたり、真っ暗なままであったり。何度も何度も、色々な人に怒られながらも、それでも仕事仲間に「本当、お前は奥さん思いだな。仕方ないね」と笑われ励まされ、彼はただミシェルに喜んでほしい一心で、天蓋に夜空を描こうとした。
「悲しいもんだ。あの日々は、俺にとっては本当に大切な日々だった。一瞬一瞬、そのすべてを忘れたくはねぇ。でも体を変える度に、俺は確実に少しずつ忘れていっちまう」
天蓋に夜空が浮かんだその日。都市中の人間は上を見上げて歓声を上げた。
ウェーバーとミシェルは、この都市で一番高い場所から二人きりで天蓋に浮かんだ夜空を見上げた。ただ一言も言葉を交わさずに、寄り添って同じ夜空を見つめたのだった。
それからも変わらずに、いつか地上に出て夜空を見上げられる日を待ち望みながら、一緒に天蓋に浮かぶ星を見つめ日々を過ごした。
長い年月が過ぎ、天蓋に夜空を浮かばせるために一緒に頑張った仲間や、この都市で一番偉かった人、近所にいた夫婦も少しずついなくなっていき、そうして、再び夜空を見上げる日よりも前に、ミシェルにもその日がやってきた。
「私は、とても幸せだった。本当に、本当だよ。沢山の時間をありがとう。私は、私の証を残すために、あなたと過ごした日々を消さないために、あなたを寂しがらせないために、この記憶を大切にします。この体のおかげで、うんと長い時間あなたと一緒に居られたから私はよかったと思うけれど、涙が流せないことが欠点ね。天蓋に浮かぶ夜空を初めて見上げた時、涙を流したかった。ありがとうと、涙を流したかった。今だってそう。でも、涙が流れないの」
ウェーバーも子供のように声を上げて泣きたかった。
幸せな日々の分、そのすべてが折り返すように悲しみがやってくる。
「私は心配。あなた一人でも大丈夫?」
ウェーバーは大丈夫だと返した。
「嘘ね。こんな時くらい、素直になって」
誤魔化せないなとウェーバーは思った。
だって、とても長い時間ずっと一緒にいたのだから。
だから、あなたがいない日々など想像できない。
「心残りが一つだけ。天蓋に浮かべてくれた夜空、本当に私は好きよ。でも、私はもう一度、あなたと一緒にあの丘の上から本物の夜空を見上げたかった」
彼と彼女の始まりは、あの夜空の下からだから。
「ありがとう。あなたと出会えて幸せでした」
それが、何百年と連れ添った人の最期の言葉。
「俺、不器用だからさ。上手な別れ方が出来なかった」
ウェーバーは笑う。
それが、ウェーバーのこれまで。
到底語り切れぬ日々と思いがそこにはある。
忘れたくはない記憶がそこにはある。
彼の過ごした何百年を僕が知ることなど出来ないだろう。積み重なった記憶は、積み重ねた人だけのものなのだから。
「星を見に行きましょうか」
あの天蓋の向こう側へ、ウェーバーの大切な人を連れて行くべきだ。
「そうだな。そうしよう」
ちゃんとお別れをするために。
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