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「私ね、これから色々なことを忘れていってしまうんだって」


 白いカーテンが夜風に靡き灰色に染まる。夜風に靡くカーテンの向こうでは夜がチラついて、パウラはその小さな病室のベッドの上で、力なく私に笑った。私はそんなパウラを見ていられなくて、逃げるようにその場を去った。立ち去って、誰もいない待合室に逃げ込んだ。逃げ込んで、それから少し遅れて両親がやってきた。父は「ひとまず帰るぞ」とだけ私に行って、私はパウラを一人病院に残し、何も話せないまま家に帰った。

 両親の口論はいつになく激しく、私はそれを聞きたくはなかったから一人ジッと布団に籠って身を小さくして、ああ、また私は先延ばしにしようとしていると、一番辛いのはパウラであるはずなのに、それでも私はどうしようもなく悲しくて、悲しくて、いつもだったらパウラの話を聞いて色付いた時間を過ごしていたはずなのに、その日は真っ黒だった。


 治すことは難しいという脳の病気。脳の回路が少しずつ壊れていき、記憶を無くしながら体の機能が低下し、緩やかに死へと落ちていく難病。

 家に帰る道中そう父親から説明をされたが、しかし私はそんな病気よりも、あの暗い病室で妹が浮かべていたあの表情が脳裏から離れなかった。

 息継ぎをするみたいに布団から窓の外を眺めて、いつもであったら聞こえるはずのパウラの声が聞こえなくて。今パウラは一人で何を思っているのだろうか。きっと泣いているかもしれない。パウラはしっかり者だけれど、誰もいないところで涙を流すような子で、私は度々パウラがこの部屋で一人声を押し殺して泣いているところを見たことがあった。

『ごめんなさい。明日、会いにいくから』私はメッセージを飛ばす。少しして『うん、待ってる』というメッセージと、おそらく病室から取ったのであろう夜空を映した画像が送られてきて、私は同じ夜空を見上げた。


 それから、私は授業を終えたらパウラが居る病室へと通う日々を続けた。面会時間が終わる間際まで、私は時間が許す限りパウラの傍に居た。私一人であの狭い自室にいることが苦痛だったのもある。でもそれよりも、罪滅ぼしのような、あの時パウラから逃げ出してしまった自分を許すために通っていたという方が強かった。

 時々私以外にもパウラのお見舞いに来る人が居て、そういう時はそのお見舞いに来た人が帰るまでの間、私は一人でジッと待合室に座っていた。私はその待合室に座っている時間がどうしても好きにはなれなくて、パウラには私以外にもお見舞いに来てくれる人がいるのだとか、一体何を話しているのだろうかだとか、そういう事が頭の中で巡っては、ふとそんな惨めなことを思ってしまう自分が小さく思えてならなくて、それなりの人がいる待合室の中、私は私が小さくなっていくような感覚をよく抱いていた。


 ただ、パウラの病室に行ったからと言って暗い思いが晴れる訳ではなかった。

「今日は授業でね」「ある人が先生に」「ここに来る途中でね」これまでの私は話を聞く側であったけれど、パウラが病院に入院してからというもの、私が話をする側になった。でも、私の毎日に取り立てて話題になるような出来事が起こるはずもなかった。それでもどうにかパウラを元気づけようと私は話をした。しかし話をしながら、ああ、毎晩パウラが私に聞かせてくれた話は輝いていたのに、どうして私の毎日はこんなにも灰色なのだろうかと、私は思わずにはいられなかった。

「無理、しなくても良いんだよ」と妹に言われた時、私は取り繕うように「無理してないよ」と笑って見せたけれど、上手く出来ていたのかは分からない。きっと、不格好で中途半端な表情をしていたのだと思う。


 それからは、パウラが楽しいと思える話をしようと思った。だから私は調査員について調べ始めた。なる為には何をすればいいのか。なった後はどんな仕事をすることになるのか。これまでパウラから話を聞いていたけれど、私は改めて調査員について知ろうと思った。

 調査員について調べていく中で、私はあるドキュメントを見つけた。一人の調査員が残した記録のようなもので、そこにはその調査員が訪れたのであろう星々の光景を収めた数々の写真が、調査員の一言と共に収められていた。

 なんて綺麗なのだろうかと、日常のあらゆることを忘れてその写真の数々に飲み込まれた。本当に、こんな場所があの暗い夜空の先に広がっているのだろうかと、私は夜な夜な自室で一人そのドキュメントを眺めながら思った。パウラが見たいと言っていたのはこういう景色で、私は心のそこからパウラのその願いが叶えばいいなと思った。パウラがあの時、どうしてあんなにも嬉々として私に調査員になりたいと言ったのか、その一端にでも触れられたような気がした。


 でも、結局私はパウラに一度だって調査員の話をすることは出来なかった。パウラの死は現実だったから。逃れられようのないものだったから。パウラの願いは願いのまま、決して叶わないと決まってしまったから。そんなパウラに、どうしてこんなにも輝かしい世界の話を出来るというのだろう。


「ごめんなさい。誰か忘れてしまったみたいで」


 それはパウラの定期健診の日のことだ。両親と共に妹の病室へ足を踏み入れた時のこと。パウラはついに、両親のことを忘れてしまったようだった。

 時間の流れが止まる瞬間というのを、その時初めて目にした。幸い、まだ私のことは覚えてくれていたらしく、「お姉ちゃんの知り合い?」とパウラは口にしたが、その言葉をきっかけに母は逃げるように病室を出て行き、父は何も言えずにその場に立ち尽くしていた。チラリと見た母の顔と、立ち尽くす父の横顔。私の知らない顔がそこにはあって、私は複雑な面持ちになった。

 パウラが両親のことを忘れてしまった日以降、より一層両親の口論は激しさを増した。私のことなどお構いなしに、私のことなど忘れてしまったかのように、両親は毎日のように喧嘩をし、怒鳴り声が聞こえなくなったと思ったら、必ず後から母の嗚咽が静かな夜に切り込みを入れるみたいに聞こえて来る。

 あの両親なのだ。私達のことなど気に留めないあの両親のことだ。ざまあみろと思った。パウラはまだ私のことを憶えている。でもお前たちのことは忘れてしまった。つまりはそういう事だと、怒鳴り声を聞きながら自分に言い聞かせるようにそう思った。

 でも、もしも次にパウラと会った時、パウラが私を見て同じことを言ったとしたら私は私でいられるだろうかと不安になった。不安になって、その不安から目を背けるように眠りについた。


 その翌日。病室に行くと、パウラはまだ私のことを憶えているようで「お姉ちゃん、毎日ありがとう」と笑った。その笑顔を見て私は安心した。パウラが死んでしまうだなんて嘘なのだと思った。そう、全部嘘で、きっとパウラはいつかまた私たちの部屋に戻って来て、毎夜パウラの話を聞いて眠りにつくあの日々が戻って来るのだと私は思った。パウラの願いもいつか叶うはずで、パウラが見て来た美しい光景の数々を聞くという私のささやかな願いも叶うはずなんだ。


「パウラ、パウラは大丈夫だよ。調査員にだってなれるよ」でも、私のその一時の考えこそが単なる逃避でしかなかった。

「調査員? 私が?」というパウラの返事が、私を現実へと力任せに連れ戻す。まるで、調査員など知らないかのような表情が私の目の前にあった。


「お姉ちゃん? どうしたの? どうして泣いているの?」


 ごめんなさい。と私は謝った。ごめんなさいと、その日はそれしか言うことが出来なかった。

 それでも日々は過ぎて行く。つまらない日々でも私の記憶は積み重なっていく。目を背けたくとも目に映り、それは確かな記憶として積み重なっていく。

 一方でパウラの記憶は消えていく。日々が過ぎ去るほどに、パウラは記憶を失って死へと近づいて行く。

 その差が、私には堪らなく辛かった。

 そしてそれはどうやら両親も同じだったらしい。

 この時、まだ両親がその辛さを受け止めようとしてくれたのなら良かったのかもしれない。

 でも、そうはならなかった。


「明日からカウンセリングを受けに行く。パウラのことは忘れなさい」


 ある日のこと。

 父は私にそう言った。

 パウラのことはなかったことにすると、父は言ったのだ。

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