7

 彼女の汚れてしまった白い髪や体をどうにかしないといけないと思った僕は、ひとまずあの保存食や飲料水があった倉庫から持てるだけの飲料水を手にした後、寝泊りしている場所に戻った。


「パウラさん」


 僕がそう名前を呼ぶと、床にペタリと座り込む彼女は僕を見て不思議そうな顔をする。それから、「それが、私の名前なのかな」と僕に尋ねるのだった。

 そんな彼女に対して、僕は頭の上から優しく水を流し、丁寧に白い髪についている汚れを流しながら、「多分、そうなのだと思います」と答える。

 彼女が何度も汚れた水に潜って見つけ出したあの日記。あれは彼女のもので、その日記の表紙に「パウラ」と書かれていたのだから、きっとそれが彼女の名前だろう。

「パウラ」彼女はそう呟いて、それから「懐かしくて、寂しい」と言葉を溢す。

 寂しい、というのはどういう事なのだろう。僕には彼女の心境というものを理解することが出来ない。もしかしたら、パウラという名前は嫌なのかと思い「パウラと呼ばれるのは嫌ですか?」と尋ねてみたが、しかし彼女は「大丈夫。そう呼んでほしい」というのだった。

 汚れの一つ一つを洗い落とす。

 思い浮かぶのは、朝日に照らされた彼女の涙と言葉。

 大切なことを、忘れちゃった。

 忘れたくはなかったのに。

 忘れてはいけなかったのに。

 その言葉が孕む感情を、僕は知っている。

 だから僕は「大切な記憶、取り戻したいですか?」とパウラに尋ねた。

 パウラは少しして、「取り戻したい」と答える。


「忘れちゃいけないって、ずっと思っていた気がするの。でも、覚え続けることを許してはくれなかったから。だから私は忘れちゃった」


 パウラは僕に「取り戻せるの?」と頭を傾げる。


「可能性がある、という話です」


 僕はパウラに話す。

 僕等は元々パウラと同じ体を持った人間であったこと。

 僕等は永遠にも等しい時間を得るために機械の体を選んだこと。

 そんな僕等はNIと呼ばれる人間であり、それぞれ役割を与えられていること。

 僕はNIの記憶を記憶集約所へ送る役割を担っていることと、記憶集約所には人類の沢山の記憶が保存されていること。


「確証はありません。記憶集約所に保存された記憶を元に人間の体に取り込み直すことが出来るのかも分かりません」


 そもそも、この星で未だ生身の体持って生きていて、かつ記憶を失っているパウラという存在自体が異質だ。記憶集約所に保存されているのは、僕のような役割を担ったNIが送り届けた記憶と、NIが命を落とした時その時点でのすべての記憶を記憶集約所へ送ると選択したNIの記憶だ。それはすべて、機械の体だから出来る事であって、生身の体を持った人間にも同じようなことが出来るかと言えば、きっとそうではないだろう。

 パウラの記憶が記憶集約所にあるかどうか。

 記憶集約所へ行って、記憶を取り戻すことが出来るか。

 可能性はゼロじゃあない。

 でも、限りなくゼロに近い。


「お願い」


 パウラの水色の瞳が僕を見つめている。

 綺麗で、脆そうだと僕は思った。

 脆いから、きっと彼女はこの星で独りきりでは生きていけないだろう。


「分かりました」


 時間なら呆れるほどある。であるのに、僕には行きたい場所も、やりたいことも、生き甲斐もない。ただ自身に与えられた役割を果たすだけ。NIを求めてこの星中を彷徨う中で、記憶集約所へ立ち寄るだけの話。


「とは言っても、僕も記憶集約所がどこにあるのかは分からないのです。色々な都市や街を巡って情報を集めなければいけません。ですから、すぐに記憶集約所へ辿り着けるわけではありませんが、それでもいいですか?」


 パウラは「うん」と頷く。


「分かりました」


 僕は、パウラの髪を水で流しながら答える。

 もうずっと、長い時間を生き続けて、とうとう自分の名前すら忘れてしまったけれど、こんなこともあるのだなと、そんなことを思ってしまう。

 ふとパウラが、「そういえば、あなたのことを何て呼べばいい?」と僕に尋ねる。

 僕は「好きに呼んで頂いて構いませんよ。僕も名前を忘れてしまいましたから」と答える。忘れてしまった記憶をどうしたって思い出すことは出来ないのだから。僕はもう、この先ずっと本当の名前を忘れたまま生きていくしかない。

 パウラは「じゃあ」と呟き、それから少し間を置いてから僕をこう呼んだ。


「ネウロ」

「はい。分かりました」


 ネウロ。それが僕の今日からの名前。


「うん。ネウロ、よろしくね」


 そう言って、パウラは僕の手を握る。

 それからパウラは「ネウロの名前も、取り戻せるといいね」と言う。

 彼女のその一言に、僕は一瞬言葉を失って、「そうですね」なんて言葉を返しながら、僕も彼女と同じように、名前よりも大切な何かを忘れてしまったような気がしたのだった。

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