第39話 記憶の彼方
1
「母さん!僕が陸上部だったころの写真ってある!?」
ドタドタと玄関を走って家に入るや否や、望は台所に立つ母に聞いた。
妹の楓はその後ろから「ただいまー」と言っていつも通りにリビングに上がる。
「なに、帰ったと思ったら急に」
「いいから!」
当然の疑問であるそれを遮って望は聞く。
それだけ重要なことなのだ。
「……………まあ、探せばあると思うけど」
「わかった!」
少し間があって、母さんは答える。
何か言いたげだが、走っていく望の後姿を黙って見ていた。
「あれだけいらないいらないって言ってたのに」
「なんか思い出したことがあるみたいだよ」
リビングから声がする。
母は視線を向けると楓がリビングでくつろいでいた。
「ふーん、望も大変ねぇ」
息子の境遇を察したように微笑む母は何を想像したのかは、彼女自身しか知らない。
「あった…………」
母さんの言う通り、棚の奥の奥に当時の写真はあった。
既に三年近く前の写真であるのに大事に保存されていて、望としては正直驚いている。
そして、何かの大会の際に撮ったであろう集合写真の中に彼女はいた。
「これって」
当時同じ陸上部で望の同級生に当たる女子生徒『橘美里』。短髪の少し茶が混じった髪色で、明るい性格から部活内でも先輩後輩問わず慕われていた。
種目は百メートルとハードル。これと言って目立った成績のある感じではなかったが、二年生に上がる頃には部内の中心人物であった。
その妹、『橘凛』。陸上部には所属していなかったが、姉である美里の勧めで何回か部活を見学しに来たことがある。
『美里、その子は?』
『ああ、私の妹。ほら、自己紹介くらいしなよ』
『橘、凛です…………』
姉の美里が言うと、その影から一人の女の子が出てくる。と言っても背丈もあまり変わらないので隠れられてはいないのだが。
美里はけらけらと笑って、彼女をぐいっと望の前に押し出す。小さく『ちょっと、お姉ちゃん………』と気弱な声が聞こえるが、お構いなしだ。
『それだけー?なんか言うこととかないの?』
『ない、です』
凜が短く答える。前髪は長く、光に反射した瞳がちらつくのみ。
帽子でもあげれば深くかぶるに違いない。
『ありゃりゃ。ごめんねー、人見知りでさ。いつもはもうちょいましなんだけど』
『いや、全然。よろしくね。えーと、名字呼びだとわかりにくいし…………』
『凜、でいいです』
その時だけ、彼女は素早く言葉を返した。
小さな一言であったが確かな意思を感じる。
『じゃあ、凜ちゃん。よろしくね』
望は少し腰を落として、彼女と視線を同じにするとにこりと笑った。
視線が交わるもすぐに逸らされてしまう。
一瞬、嫌われてしまったかと思ったが、望が視線を美里に移すと彼女はこちらをじっと見てきて、また彼女に戻すと逸らされてしまう。
『…………………よろしく、お願いします』
彼女は少し頬を染めてぺこりと会釈すると、すぐに美里の後ろに隠れてしまった。
それが彼女、橘凛と出会って初めての会話だと思う。
今の今まですっかり忘れていた。
「でも、全然雰囲気が違う……………」
当時の彼女は極度の人見知りであまり話をするような感じには見えなかった。
言葉を介したのも数えられる程度のもので、何を話したか記憶に残っていない。
現在文芸部に所属している凛とは何から何まで違っている。
正直、名前の一致した今でも同姓同名の人違いなのではないかと疑ってしまう。
確かに違和感はあった。
今までもどこか望を知っているような口ぶり。理津を知っているような言動。
中学が同じなら納得だ。
けれど、それがわかったからといってどうなるのか、と言われればわからない。
「転校してきた部活の後輩が、中学の同級生の後輩だった」というだけでは、何も問題はないではないか。同じ状況の学生なんかいくらでもいる。
(じゃあ、なんで僕は今、「何かしなきゃ」って思っているんだろう)
望は一人、項垂れるように壁にもたれかかる。
「何かってなんだよ……………」
胸の奥にざわつくこの感情にどう整理をつけてみるべきか、色々と考えてはみるけれど、解決策は一向に思い浮かばなかった。
2
週が明け、月曜日。
文化祭残り一週間となった校内は、依然としてふわふわとした高揚で満ちていて、それを示唆するかのように空には快晴だった。
「……………おはよう、望」
玄関を開けると、理津が物陰から出て来て挨拶する。
その何気ない仕草が愛らしいと思った。
「おはよう」
望も顔を上げて彼女に返す。
けれど、視線が合うと彼女は首を傾げて不思議そうに望の瞳を覗き込んできた。
「な、なに?」
「…………………何かあった?」
何気ない感じに理津が聞いてくる。
正直ドキリとした。
どこか自分の中の深いところを見透かされているような気がして。
「なんでもないよ。また学校始まって少し憂鬱なだけ」
「…………………ん」
咄嗟に誤魔化して、望は理津の少し先を歩いた。
振り向いた横顔から何か察せられてしまう気がしたから。
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