第28話 追憶 「あの日の僕と、彼女」

 

 愚かな僕の話をしよう。

 まだ無知で不誠実だったころの話を。

 

 「藤巻望」の人生を語る上で荒井理津の存在は必要不可欠だ。

 たかが十数年の人生であっても彼女との出会いは今後現れることのない衝撃を彼に与えたらしい。

 

 彼女と出逢ったのは幼稚園の頃だった。

 二人とも部屋の隅にいるような子供で、いつの間にか仲良くなっていた。

 

 家も別段離れていなかったし友達になるのは必然で、どこにいくにも一緒、何をするにも一緒。

 お互いの両親も仲が良くて、休日はお互いの家でよく遊んでいた。

 

 そんなある日。

 

 「今日はボールで遊ぼうよ」と僕が言ったのがきっかけだった。

 二人で仲良く手を繋ぎながら、近くの公園に行ってサッカーボールを転がして遊んでいた。


 一瞬の出来事。


 僕の蹴ったボールが道路上に転がっていって、それを取りに行こうと理津が道路に飛び出した。結末は単純で、目の前から出てきた車が理津をライトが照らす。

 

  「理津っ!!!!!!」

  

 名前を叫んで手を伸ばす僕の視界から、彼女の体は一瞬でいなくなった。

 頭の中が真っ白になって、力が入らない。


 「りつ……………………?」

 

 彼女のいなくなった道路に手を伸ばして、彼女の名を呼ぶ僕の姿は滑稽だったに違いない。

 

 幸い子供の軽い体はボールみたいに吹っ飛んでいって、そのまま車と壁との間に挟まれることはなかった。

 警察と救急車が駆けつけて、僕は母さんに家まで送ってもらった。

 

 あの後わかったことは、理津が生きていること。

 脚の骨が両方折れ、全身を強く打ち付ける大怪我を負って、運動が十分にできない体になったこと。

 ほんの少し、当たる箇所が悪ければ両足を切断する危険もあったこと。

  

 その日以来、僕は理津と会うことはなかった。


 罪悪感に苛まれて、忌避していたわけじゃない。

 ただ、彼女の運命を狂わせた僕はこれ以上彼女の人生にかかわるべきではないと思った。

 

それから、荒井理律という女の子が望の人生に登場することはなかった。


  時折母さんが「今日は理津ちゃん家行かなくていいの?」と聞いてくる。

 僕は決まって「行ってるよ」と返すのだ。


 そう。毎日のように行っている。

 理津のいない時間を狙って、両親の元に行ってはこう言うのだ。


 「すみませんでした。本当にすみませんでした」

 

 僕は頭を深く下げて、理津の両親に謝る。

 それでも足りないと思えば、土下座をして謝罪する。


 「僕のせいで、娘さんを傷つけてしまいました。本当にすみません。ごめんなさい」 


 理津の母―――恵子さんは時折迷惑そうに僕を見るけれど、一度も謝罪を受け取らなかったことはなかった。

 ある日、恵子さんが「理津に会っていかない?」と勧めるけれど、僕は彼女に会うことはしなかった。



 彼女に次に再会したのは、中学二年生の終わりごろ。


 当時の僕は小さなきっかけから陸上部に所属していた。

 種目は100メートル。一年生の後半から県大会で結果を残せるようになって、二年生の夏には関東大会に出場するほどに成長していた。


 まさにのうのうと生きて、忘れたかのように暮らしていた。


 僕はこの時、理津が同じ中学に通っていることも、リハビリと保健室登校を繰り返していることも知らなかった。


 ある日の昼休み、彼女が突然教室を訪ねたことがあった。

 記憶にある通りの綺麗な黒髪で背丈も成長して可愛らしい少女になっていた。


 僕はさぞ彼女に恨まれているだろうと思った。

 

 どんな文句を言われても罵詈雑言も投げかけられても文句は言えないと思った。

 それだけのことをしたし、それだけのことをしている。


 現在進行形で彼女を避けている僕は、ただただ彼女からの復讐を受け入れるだけだと思った。

  

 けれど、彼女が開口一番に言った言葉は、

 

 「……………………好き、です。付き合って、ください」 

 

 たどたどしい言葉で、顔を染めながら理津は言った。


 教室の真ん中で、「久しぶり」の言葉もなく。

 当時と同じ無表情で、でもどこか優しい顔をして。

 

 「え…………ぅ、ん」

 

 突然、思いもよらなかったことを言われて、僕は返事をしてしまった。

 けれど、今思えば本心から出た言葉だと思う。

 

 でも、その時の自分には後ろめたさで従った薄情なものだと、そう思っていた。

 未だに理津の足には大きな手術痕があって、それを見るたびに僕の心は少しずつ擦り減っていく。 


 それからは僕は部活をやめた。

 三年生は引退していて、今度は自分達が部活を引っ張っていくべき時期であったのにも関わらず、僕は部活をやめた。

 

 『なんで部活やめちゃうんだよ!いきなりすぎるだろ!』

 『理由くらい教えてくれたっていいじゃん!何がいけなかったの!?』

 『お前が部活を引っ張っていくんじゃないのかよ!ふざけんなよ!』 


 部員のみんなには沢山の迷惑をかけたし、顧問の先生にもたくさん止められた。

 けれど、もう彼女から離れるようなことはしたくなかった。彼女を裏切るようなことはしたくなかった。

 

 中でも最後まで心配をかけたのが妹の楓だった。

 自分で言うのもなんだが、僕は楓にとって自慢の兄貴だったと思う。

 妹が自慢げに兄である僕の話をクラスメイトや同級生に話すのをよく見かけていた。


 『なんで、お兄ちゃんが止めちゃうの!?なんで、お兄ちゃんが楓から離れていっちゃうの!?』

 

 別に何かが嫌になったわけじゃない。

 けれど、どうしようもなく愚かな僕は、それくらいしか払えるものがなかった。

 

 幸福という名のパラメーターがあるのなら、きっと僕は彼女よりも幸せになってはいけなくて。

 

 だから僕はもう、陸上はしない。

  



 

 

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