まだ彼と再会する前。

 

 「荒井さん。また無理してリハビリしてたでしょ。係りの人が困ってましたよ、そんなんじゃ余計に悪化してしまうって」

 

 目の前に座るお医者さんは私を見下ろして、そういった。

 

 「……………………はい」

 

 長年担当してもらっているのであまり珍しい光景ではないのだが、それでも先生は毎度のごとく困り顔で頭を抱える。

 

 「最近では保健室登校ではありますが、通常の学校にも通えて症状も良くなってきたじゃないですか。荒井さんのは病気ではありません。だから絶対に良くなるんです。焦ってはいけませんよ」

 

 そんな風にまるで子供を諭すかのように先生は優しく声をかけてくれる。

 

「いいですか?これだけは約束してください。これ以上無理をしないこと。何かあったらすぐに私かリハビリテーションの先生に言ってください」

 

 「……………………はい」

 

そして、この会話も毎度のごとく行われるのである。



 「いいですか?今日という今日は、きちんと安静にしてもらいますからね」

 

 「……………………(ジリジリ)」

 

 「すり足で来てもだめです!あっ、手を広げて威嚇をしてもだめです!」

 

 理津がリハビリテーションに向かうと担当の先生が他の先生を連れて理津を取り囲んでいた。

 

 理津のリハビリを主に手伝ってくれるのは真ん中にいる老年の女性。

 名前は菊池鏡花先生。

 理津が初めて会った時は、優しく笑顔の綺麗な女性という印象を受けた。

 

 「はあ…………荒井さんはこちらが折れないといつまで経っても帰ってくれませんからねぇ。困ったものです」

 

 「……………………さすが、よくわかってる」

 

 「諦めてるんです!」

 

 菊池先生はいつも理津が長い時間リハビリテーションを利用することを反対しているが、最後はやらせてくれるので理津は彼女のことを信頼している。

 

 「…………………くっ」

 

 理津はいつも利用している階段に寄り掛かるようにして手摺を強く掴む。

 五・六段しかない小さな階段を理津は顔をしかめながら、上り下りを繰り返す。

 

 「…………………んぐ」

 

 力を込めるたびに全身が言うことを聞かなくなっていく。

 呼吸は荒く、首筋には汗が流れる。

 

 「…………あっ」

 

 足を滑らし、浮遊感が理津を襲った。

 

 「大丈夫ですか?荒井さん」

 

 「…………………ありがとう、ございます」

 

 「荒井さんの頑張りは素晴らしいです。けれど、急いではダメですよ。あなたは何のためにそうまでして早く治そうとするんですか?」 


 肩に手を置いて菊池先生は理津を支えてくれる。

 先生の言葉はいつだって優しくて、いつだって理津で味方でいてくれた。 


 「…………………会いたい人がいる、から」

 

 「会いたい人、ですか?」

 

 そう言って彼女はまた手摺に力を込める。

 その姿がどれだけ惨めであっても、努力が実を結ばなくとも彼女は挑戦し続ける。

 

 「そうですか。それは必ず治さないといけませんね」

 

 「……………………ん」

 

 彼女が病院とリハビリテーションを通うようになってから、かなりの年が経つ。

 そして家に度々彼が訪れると、母が私に言うようになってからも同じくらいの時間が過ぎていた。

 

 (早く会いたい)


 日に日にその思いは募っていく。

 

 (望に会いたい)

 

 彼は私にどんなことを思っているだろうか。

 ただの謝罪のする対象として煩わしく思っているだろうか。

 それは嫌だ。すっごく嫌だ。

 

 

 「今日から教室に通えるんでしょ。良かったね」

 

 「…………………ん」

 

 母が運転席のミラー越しから私に言う。

 今まではずっと保健室登校をしていたが、今日から他の中学生と同じように学校に通えるようになった。ありがとう菊池さん。

 

 「まさか望君と同じクラスだなんて、驚いちゃたよね。緊張してる?」

 

 「…………………ん」

 

 「ふふっ、大丈夫よ。最初は久しぶりの再会にびっくりしちゃうかもだけど、望君なら大丈夫。ママが何年望君と会ってたと思ってるの?」

 

 「…………………(むう)」

 

 「あら、やきもち?」


 私が許せないのがひとつだけある。

 それはずっと私に会いに来ないことだ。お母さんには毎回のように謝りに来るのに私の元には来ない。これは由々しき問題です。

 

 私は車が学校の駐車場に止まったのを確認すると、ドアを開けて勢いよく飛び出す。

 

 「あれ、もう行くの?」

 

 お母さんが私の目を見て、問いかけてくる。

 その瞳は我が子を気遣う母のものだった。

 

 「うん。いってきます」

 

 私は車の中のお母さんに思い切り手を振る。

 ずっと言う機会がなかった言葉。

 

 お母さんは少し涙ぐんで、

 

 「いってらっしゃい。理津」

 

 笑いながら見送ってくれた。

 

 

 (……………………会ったら言いたいことがたくさんある)

 

 理津は階段を上がって自分のクラスへと向かう。

 その足取りは軽く、けれど緩やかだ。

 

 (…………………やっぱり最初は『久しぶり』?それとも『おはよう』かな?)

  

 (ここは奇をてらって怒ってみる?なんで私に会いに来ないのって)

 

 (そうだ。それにしよう。そしたら少しは会えなかった時間も埋まるかも?)

 

 ガラガラ

 

 理津はドアに手をかけて、開ける。

 

 クラスメイトの視線が一斉に理津の方へ向く。そりゃそうだ。初めて教室に入った。

 

 その丁度、真ん中の席に彼はいた。

 私は一瞬で、それが誰だかわかった。ずっと会いたかった人。

 

 けれど彼は私を見ると、視線を逸らして目を瞑る。まるで降りかかる恐怖にただ怯えている人のようで、私はドキッとする。

  

 「…………………あ」 

 

 あれ、声がでない。

 あんなに前もって言おうとしていた言葉が出なくって、喉元でつっかえている。

 

 段々と頭の中が真っ白になっていっていく。

 何が言いたかったんだっけ。

 

 (そうだ。一番言いたかったこと。私が思っていたこと。伝えたかったこと)

 

 

 

 「……………………好き、です。付き合って、ください」


 顔が熱い。

 それだけじゃなくて、全身が燃えるように熱い。

 

 彼の顔を見るのが怖くて、でも彼の顔を真正面から見たくなって私は恐る恐る視線を上げる。

 

 「え…………ぅ、ん」

 

 そしたら望の顔も真っ赤に染まっているのに気づく。

 数年ぶりに会ったはずなのに、背丈も声も表情も成長しているはずなのに。

 

 つい嬉しくなって飛び跳ねそうになる。

 そして私は笑うのだ。

 

 彼に会えた喜びをかみしめて。

 いつまでも。


 

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