5食目『歩み、不安』

31 トランス脂肪酸と精製糖(退院)

  1


 十二月二十二日。都内、某病院。

 自動ドアを抜けた短身たんしんの少女は、病弱さながらによたよたと外の空気を吸った。

 ひさしを支える丸柱まるばしらを通り過ぎ、ふと気配を感じて目線を横に向けると、そこには見知った顔が幽霊のようにたたずんでいた。悲鳴こそ出なかったものの、その驚きは脇腹へダイレクトに響いた。

富士彦ふじひこ封殺ふうさつしたか。味方につけるでもなく、捨て身で盤面から退場キックアウトさせるとは、いよいよ余裕がないみたいだな」

 あんを待ち伏せしていた未来みらいは、目を合わせながら無表情で言い放った。

「おや? お出迎えかい?」

 杏は感情を抑えながら、息を吐くように皮肉を返した。夢に出てきた上、誰よりも早く退院祝に訪れるなんて、軽いホラーである。

「傷の具合はどうだ?」

「富士彦君が手加減してくれたお陰か、なんとか生きているよ。傷は大した深さじゃあないっていうんで、入院した翌々日――つまり現在、こうして退院させられたわけだ。今思うと、質素な病院食も悪くなかったね」

「抜かせ。杏が自分で刺したんだろ?」

 未来は言及を続けた。端から、富士彦の仕業ではないと確信していたからだ。しかし、誰も迎えに来ていないなんて異様な光景である。

「なにを根拠に?」

「お前の性格だよ」

 日が昇り始めた病院の玄関。寒風がふたりの地肌に突き刺さる。

「ふん、どうせ学校側は警察には届けられないよ。そうだ、彼から預かったメガネは君に返しておくよ。盗撮なんて良い趣味じゃあないよね? どうせなにも映ってないだろうけれど……あ、痛てて……」

 杏はすぐ、立場上のマウントを取りにいった。未来が相手では、隠し事はできない。富士彦から奪い取ったメガネを放り投げると、未来は反射でそれをキャッチした。今や、メモリーカードを取り除いた伊達メガネである。

「辛そうだな。帰って休んだほうが良いんじゃないのか?」

 未来はそれを胸ポケットに挿すと、皮肉めいて笑った。

「だったら、スッと帰してくれないかい?」

「さすがに怪我人を襲う気はないから、近況報告くらい聞いてけ」と未来は本題の入口を作り、「あれから愛佳あいかも富士彦も学校に来てない。これが狙い?」と続けた。

「単純に君の除名だよ、私の目的は。わかるかい?」

「だったらお前の権限でさっさとしろ。ふたりに手を出す意味はないだろ」

「わかっていないねえ? 君とマンツーマンで接したいのさ。だから邪魔者を追い出したまで。私はね、君に敗北感を与えたくてウズウズしている。あの頃みたいに」

「殴り合いなら歓迎だけど」

「おいおい……怪我人を襲わないと言ったばかりだろう? 悪いけど本当に帰らせてもらうよ」

 強めに告げた杏は、「追って連絡するよ」と一方的に話を終わらせると、タクシー乗場へと足を運んだ。


 

  2


 未来は霊感を否定している。

 見える時は見えるが、それが『幽霊』なのか『幻覚』なのかが科学的に証明できない以上、他言はするべきではないと、この十六年間で学んだ。

 けれど未来にとって、幽霊があろうがなかろうが、現実の世界で『幽霊女』と気味悪がられ、友人グループから外され、同級生から罵られる日々にさえ戻らなければ、どちらでも良いと思っている。

 考えあぐねるベッドの上。読みかけの洋書から栞を抜こうとした時、端末の着信音が鳴った。画面に表示される採食同好会会長の名前。

「もしもし?」

『やあ、こんな時間にすまないね。あぁ、要件はひとつ。秒で終わるよ』

「秒でねえ」

『あす二十三日、第二調理室へ来てくれないかな。時間は十時』

「お前が望むなら、罠とわかってても行ってやるさ」

『それはそれは喜ばしい。じゃあ当日、楽しみにしているよ? けれど当然、個人の意見は尊重する。来るか来ないかは、君の自由だ』

 一方的な要件で終わった電話。舌打ちを躊躇し続けた未来は、鼻から吸いこんだ息を口から吐き出し――それを数度続けて、激情をやり過ごした。ほどなく通話と同じ内容のSMSが届くと、サイバーテロさえ疑った。すぐそこまで迫ったターニングポイントにきゅうし、端末をベッドに放り捨てて考えを巡らせる。

 満喫町出身の自分をかなぐり捨て、町の法に背き、余所者と付き合うのが大事なのだろうか? 本当は杏と向き合い、死ぬまで満喫町で生きてゆくのが世のためなのかもしれない。

 が、やはり友人のどちらかに危害が及ぶ最悪のシナリオだけは避けたかった。杏が正体なく罪をこじつける可能性が、恐ろしくてたまらなかったのだ。

「あたしの考えが曖昧すぎるのか。チッ……ほんとドイヒーだな」

 こらえていた舌打ちを出してしまったことで、ふたたび栞を抜こうとは思えない夜が更けていった。



  3


「ふぁあ……」

 夜の乾いた空気を吸っているうちに、未来のまぶたは閉じていた。

 寝返りを打つと、結局一ページも読まなかった洋書の角が顔に当たった。

 あくびに合わせて体を起こし、布団から這い出て、かすむ目で確認したのは、八時半のアラームである。停止にスライドしたのち、板氷ばんぴょうのような廊下を素足で歩き、家族が出払っている一階へ下りると、眠気を飛ばすために朝風呂に入り、十二月二十三日が始まった。


 焦げがこびりついたオーブントースターにレーズンパンを放りこみ、つまみを右に回して、適当な目盛りに合わせる。三分弱――きつね色に変わった頃合いを見計らい、つまみを左に回して『チン』を鳴らすと、パンを取り出して皿に乗せた。

 朝食をダイニングテーブルに運び着席すると、糧に手を伸ばし、無言のまま口に運ぶ。喉の通りが悪く、冷蔵庫から飲み残しのペットボトルを持ってきて、キャップを回しながらふたたび椅子に腰を下ろす。

「ふぅ……トランス脂肪酸しぼうさん精製糖せいせいとうが染み渡る」

 ミルクティの甘さで徐々にギアを上げてゆく、ティーンエイジャーの朝。老化防止のために是非とも控えたい食生活である。


 平生、人目がある手前『いただきます』と言うが、誰も存在しないリビングでは、人に聞かせるだけの呪文は唱えない。朝食をたったひとりで、つつがなく展開しようなんて満喫町の誰が思うだろうか。

 背もたれにだらりと上半身を預け、椅子の上で立てた片膝をテーブルのふちに乗せている未来は、朝食なんてしょせんは無駄な作業だと思っている。

 他人から言わせれば、こういった言動もまた罪なのだろう。

 テーブルに足を乗せるなんて何事だ! 朝食が無駄なんて食育がなっていない!

 コピー&ペーストのような、定型的な正義が振りかざされる。それだけこの町には、【五大の罪】に怯え、体裁ばかり懸念している愚者が居る。

 今のところ、【五大の罪】に引っかかりそうな友人は、過食症の愛佳である。

 外様とざまとか病気とか、免罪符がどこまで通用するかが定かではない以上、なんとしても露呈させてはいけない。

 友人は守りたい。が、相手は安藤杏である。

「退院直後とはいえ、相手が悪いな……」

 未来は弱気な発言とは裏腹、奮起するように早食いした。


 敵に呼び出されたというのに、時間厳守で愛車にまたがり、攻撃的な寒風を浴びながら五分ないし十分ペダルを漕いだ。冬休みに入ったばかりの学校に到着し、目にふれたのは部活動を行う者ばかりだった。

 下駄箱に行くと、偶然ジャージ姿の若葉わかばと遭遇した。

 若葉はこれからバド部の自主練をしに体育館へ向かう途中で、軽い雑談の中、終始クリスマスは予定がないと嘆き続けた。――本当は富士彦を誘いたいが、未来の前でそれを言うのが恐ろしくて、結局なにも言わなかったのだ。

 未来はそれをなんとなく感じつつ、苦笑しながらクラスメイトに手を振り、青色の上履きを鳴らして、ひんやりする第二調理室へと辿り着いた。

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