44 アケビと見紛う

 愛佳あいかは親に連絡すると、本日は友人宅に泊まる旨を伝えた。

 阿鼻あびのようなパーティを終えた先には、父母ふぼが居る。大食の代償を考慮し、食事の量や間食に気をつかってくれた両親である。そんな家族の、『健康な女の子に育ってほしい』という願いを踏みにじり、耐久レースに参加している愛佳が、心を痛めていないわけがなかった。

「みぃちゃん。あす以降の予定は?」

「さっきのプランの末、採食のパーティに何食わぬ顔で参加する」

 未来みらいが敷いてくれた舗道は、本当に『未来』に続いているのだろうか。鬼胎きたいを抱きながら、「そっか」と相槌を打ち、ロックを解除したスマートフォンを見据えた。

 この部屋に訪れてから、三時間が経過している。

「――野菜食いたいな」

 突然放たれたのは、肉ばかりが続いた時に思わず唱えてしまう呪文だった。未来は便乗するように「確かに」と相槌を打ち、富士彦ふじひこに目線をやった。

「休日の学校って何時に閉まるんだ?」

 濁流に呑まれ続ける少年は、たったひとつの要求を汲み取り、嘆息を吐き捨てた。

「知らない。でも防犯カメラには気をつけて」

「塀を乗り越えろってことね……」

 富士彦は病人のように立ち上がると、未来はその動作に合わせ、緑黄色野菜のほかに、歯磨きセットまで買い物リストに加えていた。


 時刻は十六時半。

 会話が減ってきたところに小間使いが戻ってくると、スーパーの袋を調理台の上に置いた。仮眠にちょうど良い、硬い硬いベッドに。

 愛佳は一礼のあとレジ袋に手を伸ばし、彩りを食していった。

 揚げる、焼く、煮る、蒸す――食事を口に運ぶたびに喜怒哀楽が一変する。現在は、逮捕されるくらいなら死ぬ気で食べようという気概が猛烈に働いている。

 セラミックとアイアンの触れ合い。食材はごりごりと上下の歯にすり潰され、変わり果てた姿で喉を通る。換気扇のファンは永続的に回り続け、思考が一時的に回らなくなる。男子がたまに姿勢を変え、女子たちは食事を皿に乗せるために立ち上がる。会話のない代わりに、映えるのは効果音の数々だった。

 愛佳は目を瞑りながらイスの上で背伸びをした。あくびが誘発され、開眼と一緒に息をつき、ぐるりと小さな世界を見回すと、目に留まったのは富士彦の姿だった。愛佳はその隣にしゃがみ、身を寄せた。

「ねえフジさんや。もしかして外でなんか食べてきた?」

「いや、なにも……」

「お腹かん?」

 首を横に振る富士彦は、膝を抱えたまま四十八時間断食に挑戦するつもりか。どうにかして彼の心を動かせれば、同じ立場で対等に会話してくれるはずである。愛佳の心には、非道なウキウキが湧き上がってきた。

 あたかも夏休みデビューのような、はたまた童貞を卒業するかのような身近な例えで、富士彦の心がこちらに近づくための誘導を頭の中でえがき続けた。けれどその視線が捉えているのは、杏の言葉に憑依されているような、焦点の合っていない未来だった。


 諸々にうんざりした愛佳はトイレに立った。

 少年の温もりがなくなり、より冷えこむ個室で、屈んだまましばらく思案した。が、いつまでも答えが出なかった。なぜなら初めから無心だったのだ。空間に呑まれつつ、さっさと済ませた愛佳は冷たい水で手を洗い、鉄扉に手をかけた。

「――ちょっと待て!」

 わずかに開扉かいひすると、悶着の様子がトイレに漏れてきた。軋みをなるべく抑え、振動にも気を配りながら鉄扉を開くと、調理場の声がよりクリアになった。

「富士彦のために手料理作ったげる」

 それは、なかなかの眺めだった。

 富士彦に馬乗りになった未来が、鬼女きじょの表情で愛を叫んでいるのだ。たった数分で随分と関係がホットになったものだ。ふたりの視線は宙で絡まり続けている。

「わ、わかったから……とりあえず下りて」

「聞こえなかった? 手料理を作ったげるって言ったの」

 富士彦は決して、腕力での抵抗を見せていなかった。対して未来は、その精神を崩すかのように、右手に持った食材にかぶりつき、すっかり口内へ収めてしまうと、ちょうど空いたべとべとの右手で彼の顔を抑えつけたではないか。

「やめっ……!」

 富士彦は身を守ろうと、顔面に絡みつく触手のような五本指を引き剥がそうとしているが、体重が加わっている以上、そう簡単にひっくり返せる盤面ではなかった。

「ふじひこくちあいて」

 もごもごと発した未来を見て、愛佳は『手料理』の正体を理解した。親鳥と雛鳥のアレである。なんて慈悲深いのだ。なんてえらく官能的なのだ。

 愛佳はしばらく視線を注ぎ続けた。富士彦を助けるのはイージーだが、どこまでも勝ったのは興味だ。未来がどのように壊れるのか? 富士彦は覚悟するのか? ふたりの関係に対して、背徳的に心拍数が上がっていった。

 アケビと見紛うほど青くなった富士彦の顔に、蔦のような長い巻き毛がまとわりついた。首を激しく振って拒絶するが、食塊とともに未来の唇に迫撃されてしまう。衝突事故と錯覚するくらいの触れ合いだった。

「うっ、ちょっ――! げほっ……!」

 それでも上手く口の中に押しこめず、少女の口内で執拗に咀嚼された食物は、少年の頬を伝い、床にこぼれ落ちてしまった。すぐさま嘔吐えずきが耳に届いた。

「なにむせてんの、汚い。そんなに嫌なら逃げれば良いでしょ」

「……俺にもわからないんだよ」

 愛佳の嗜虐症に火が点いてしまうほど、心地良い光景だった。ふたりとも、十中八九ファーストキスだっただろうに。そもそも、今の攻防をキスとして数えてしまって良いものか。

「あたしは今まで、ずっと富士彦が好きだった。でもキミには、普通の男子として、普通の生活を送ってほしい。いつか普通に好きな人もできて、普通のキスもできる。今ならまだ間に合うかもしれない。だから……!」

「見捨てるのが忍びないんだ」

「ふーん? 吐き出すのは簡単、食べ物も綺麗事も。ほら、もっかい。次はしっかり飲みこませるから。食材を無駄にするな」

「こんな時まで【五大の罪】かよ。いったい誰が見てるってんだ」

「食の神様? いや、今は愛佳」

 未来は視線を動かさず、放心状態の富士彦を見下ろしながら立ち上がった。どうやら盗み見がバレていたようだ。

「もっと見たかったなあ。フジさんが失神するまで」

 愛佳が調理場に入った途端、依然として口の中をもごもごさせている未来が、顔を迫らせてきた。

「わ、わたしはエエっちゅーねん」

 見境のない友人に唇を奪われそうになった愛佳は、本能のまま掌を突き出すと、それがデコにジャストミートした。ぺチンという快音が、未来の動きを止める。

「痛い……。というか富士彦、手をこまねいてるなら酷いことし続けるからね?」

 未来の意志がふたたび富士彦に向いても返事がなく、その細い片眉が釣り上がった。またなにかされるのだろうと思った矢先、未来は片足を高く上げて、富士彦の顔面を踏みつけようとした。が、靴底は虚しく床に打ち当たってしまった。

「回避するな」

「……暴力反対です」

 彼の心なんて、わかりっこない。

 愛佳たちと共鳴するには、もう狂う以外の方法がないのだから。

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