45 大きな胃袋

 休憩がてらの一悶着が終わり、愛佳あいか未来みらいはふたたび箸を動かした。苦行のように食べては休む。消化を促しては食べる。背徳感で心身が決壊してゆく音に、咀嚼音そしゃくおんが重なる。けれど、やめたいとは言えなかった。

 例えば一緒に入部した部活、あるいは一緒に始めたアルバイト。

 どちらかが先に『やめる』と言えば、友好関係に支障をきたす。

 どちらかが率先して頑張れば、どちらかがあとから怠ける。

 絆という束縛に近かった。


 始業式の日、『食べるのが大好きです』なんて自己紹介していたアぎょうの女を思い出し、そいつのテンプルにフックをかましてやりたくなった。いっそ手を止めれば、富士彦ふじひこが見兼ねて、思考をともにしてくれるかもしれない。

 とはいえ、彼はまだ崩壊にはいたらないだろう。ひとまず愛佳は、富士彦を狂気へいざなう本題は口にせず、

「今日はみんなでお泊りだね」

 と、十九時を過ぎた頃に和やかな話題を持ち出した。

「暖房ないから凍えるぞ」

「寝る時は固まって暖を取る、もちろん富士彦も。あたし寒いの無理」

 女子生徒の強制力に、懸念の眼差しを向ける男子生徒。桃色の濡れ場も、採食同好会にかかればホラーに早変わりだ。しかし寒さを凌ぐには、気休めでも防寒具を増やしたいところである。なにか方法は――

「えーっと、みぃちゃんや? 寒いならスカートの下にジャージ穿くとか?」

 愛佳はしばらく考え、苦肉の策を口にした。

「マジで言ってる? ド田舎の女子高生かよ……最悪だ」

 すると未来は、想像どおりの反応を示した。が、背に腹は代えられぬ本心も見え隠れしていた。愛佳はその心を汲み取り、富士彦に視線を寄せた。

「ってわけでフジさんや、わたしらのジャージ持ってきてくんない? 教室の扉は鍵ついてないから大丈夫だよ。ホレ、ゆーにーっとぅごーとぅだくらするーむ」

必要needじゃねえわ。タイツ穿いてるから大丈夫だろ? むしろ俺のほうが寒いわ」

 富士彦の意見は尤もだった。ズボンを一枚しか穿いていない男子の軽装を見るだけで、心身が震えそうになる。

「おねがいフジくん。あたし寒いのニガテなの」

 だのに未来は構わず、渋る富士彦に対して両手の掌を合わせ、上目遣いと声音を使った。さすが未来先生、クールからキュートへの属性変化こそ男子を落とす方法だと熟知しているのだ。

 富士彦に効果がないと知りながら、全力でやりきる姿はもはや勇ましい。

「未来さん怖い」

「おいテメエ、どういう了見だ?」

「反社……。あの、行ってきます」

 対して、バイオレンスの予感を察した富士彦は、逃げるように部屋を出ていってしまった。それを静かに見送ったあと、

「あたしらの靴とか服とか頼んでるけど、途中で嗅いだり舐めたりしてないかな?」

 未来が、相変わらずの変態的要素を口にした。

「そりゃだよ。器物破損で起訴だね」

 顔を見合せて愛佳が漏らした笑いは、自分自身への立派な皮肉だった。


 夜の学校は寂しげで心地が良い。

 間延びした圧迫空間に、ブツを抱えた富士彦が戻ってきた。「ほら」と手渡されたジャージを穿き、かすかな温もりに浸ること数分。限界を迎えたように会話が減ってしまい、それぞれが船を漕ぎ始めた。それから寝床の確保に移るのには、そう時間はかからなかった。

 コートを掛布団にする。各々のカバンを枕代わりにする。自前の手袋やマフラーはもれなく身につけ、できるだけ暖を取った。

 横になってからも蛍光灯は消さず、それぞれが最適な寝相を見つけるのに苦戦していたが、日付が変わる前には、意外と神経が図太い富士彦が寝息を立てていた。それから約三十分もぞもぞしていた未来も静かになった。

 最も寝つきが悪い愛佳はナイトメアに出遅れてしまい、『レム睡眠!』と心で唱え続けるが、それが逆効果で目を開けてしまう。今度は無心で目を瞑って、ふたたび目を開ける。閉眼、開眼、閉眼、開眼――あゝ、不眠ローテーションの完成である。

 寝ればうなされる。が、寝ないと疲弊する。どちらが幸せなのだろうか?


 ――ふと、愛佳の耳元で金属音が響いた。

 まぶたを開くと、全裸で調理台に寝かされ、手足ともに拘束されていた。すぐ横には、一糸まとわぬ姿で牛の被り物をした短身たんしんの人物が立っている。

 そいつは古びた包丁を愛佳の前腕にあてがうと、体重をかけては何度もスライドさせ、あっという間に片腕を切断してしまった。業務的な動作で残った腕、両足も次々と切り落される。要は食材になっているのだと、愛佳は驚くほど客観的に明断した。不思議と切断された痛みはなく、なぜか背中にこそばゆさが走った。

 四肢がなくなり、拘束具の必要性もなくなると、その体はごろりと床に転がり落ちてしまった。朦朧と部屋を見回していると、未来と富士彦がシンク付近で濃厚なディープキスをしながら、徐々に肌の色が紫に変色してゆくではないか。

 そのうちふたりは腐敗して、細長い軟体動物のように折れ曲がった。べちゃりと床に広がる液体状のふたりから、今度は肥えたウジが溢れ、それらが外に飛び出すと、軍隊よろしく綺麗に整列して床を這い、愛佳の体にまとわりついてきたのだ。それにはたまらず、首だけを動かして暴れ回った。

 何糞なにくそ! 何糞! あぁ、ままよ!

 叫ぶように飛び起きた愛佳は、激しい動悸に肩を揺らしながら、スマートフォンのロックを解除した。深夜三時、両脇で寝息を立てるふたりも同じような夢を見ているのだろうか。反射的に体中を触り、ウジの有無を確認した。

「虫はやめてほしい……」

 冷蔵庫の音が耳につく室内でふと蘇ってきたのは、一生モノのトラウマだった。満喫町の秘密に触れなければ、どれだけ楽しい学生生活になっていただろうか。こんな部屋では感情のけ口も見つからない。気を紛らわすためにストレッチでもしようかと思ったが、両隣の温もりがその場に体を縛りつけた。

 愛佳はうつむきながら思った、ここは大きな胃袋なのだと。

 であれば、いつまでも停滞なんてできない。はばかりによって閉鎖された血生臭くも消毒液臭いスペースでは、一朝にして理性が溶かされる。またあすには変わり果てた姿で外に排出される。

 いっそ心どころか、数センチ先を羨む目も、存在を感じるための鼻も、人を動かすための口も、ひとりを感じるための耳も、すべて溶かしてしまえば良いのである。

「はーぁ……」

 溜息が白くならないだけ、室内は平和だった。

 なるようにしかならない今晩。陽が昇ればまた感情も変わってくるだろう。涙が出なくなった頃、愛佳は本格的な眠りに落ちていった。

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