46 一番の被害者

 十二月二十四日。

 愛佳あいかが寒さで目覚めると、六時ちょっと過ぎだった。

 つま先は冷たいが、体の調子は悪くない。体の痛み、わずかな胃もたれを感じながら上半身を起こすと、その振動で富士彦ふじひこも目を覚ました。寝起きが悪いと噂の未来みらいは放置し、両腕を天井に突き上げながらあくびをしたあとシンクで顔を洗った。

「おはよフジさん、寒いねー」

「はよ。凍えなかったか?」

「平気平気。なんか食べる? 作ってあげようか?」

 愛佳は露骨な女子力アピールを行ったが、受け手は目を合わせてくれなかった。

「そういや、昨日からなにも食べてないな」

「そっ。欲しかったら言ってね、温まるよ?」

 髪を結わず、シュシュを左手首につけたまま、冷蔵庫から取り出した食材をフライパンで炒めた。味つけはしょうゆ、みりん、酒、甜麺醤。完成した野菜炒めを眺めながら、味噌ベースのほうが良かったと痛感した。


 適度な朝食を終えた愛佳は、未来が起床した時のために汁物が入った鍋を火にかけてぼうっと注視していると、ふと横に気配を感じた。

「どうしたの? 食べてみる?」

「いや、腹は減ってるけど」

 自ら側に寄ってきた富士彦は、愛佳の問いに対し、低音でそれとない返事をするばかりで、完結へつながる態度は示さない。

「なんも食べんと体に悪いよ? ねえ、試しに一口だけでも食べてみん?」

「それは……」

 それでも富士彦の言動からは、不完全ながらに精神崩壊の予兆が見え始めていたのだ。無条件での空腹や、閉鎖空間でのストレスが、徐々に心身を蝕んでいるようだ。

「すぐ温まるからねえ」

 愛佳は積極的な会話を心がけた。一方、富士彦は拒否せず、刑を執行される罪人のように大人しく待っている。これはいよいよ、さじの使い方次第ではなるようになりそうだ。愛佳の精神は、とうに正常ではない。当然、物の捉え方もシビアになっている。新たな力添えがなくては、三人仲良く豚箱に行くのは必至だと。


 七時を回ろうという頃。お嬢様がご起床した。

 自負していたとおり寝起きは悪いようで、部屋に目を配ったあと、「あぁ……」と納得のような肉声を漏らしていた。ぼさぼさのウェーブを縦横無尽に振り回し、掻き上げながらぴたっと止まった未来の動作。目線の先には少年が居た。

「あれからなにも食べてないの?」

 言いながら手を下ろすと、前髪がふたたびそのおでこを隠した。

「力になりたいとは思うんだ……」

「自分は手を汚さずに物見遊山? さすがインテリふじっこは違うね」

 未来は掛布団代わりのコートを払いのけると、四つん這いでよろよろと前に進み、老婆のような動作で立ち上がった。前日まで好意を抱き、身を呈して庇っていた人物への態度とは思えない。

「まあまあ、フジさんも被害者なんだからさ。変なあだ名つけないであげてよ」

「一番の被害者はあんでしょうが!」

「瞬間湯沸かし器?」

「だって、もう後戻りできない……。わかる……でしょ?」

 挙句、最も仲の悪かった相手を憐れんでいた。彼女の精神はもう、ぐにゃぐにゃに捻じれている。富士彦は友人としての抑止と、異常者の威圧に挟まれ、動くに動けなくなっているのだろう。その瞭然たる事実を知りつつも、愛佳は彼をどうにか扇動しようとしていた。


「あのさ、俺一晩考えたんだわ」

 そのうち富士彦の消えそうな一言が生まれ、

「俺は会長を尊敬してた。見た目とは裏腹に聡明で、茶目っ気もあって、会員のこと親身に考えてくれてさ。自ずとあの人の役に立ちたいと思ってた。なのに……」

 彼の思いは徐々にかすれていった。

「もう杏の役には立てない。あたしを恨む?」

 それを煽るように未来は、片足に体重をかけて、だるそうにターゲットを見据えていた。彼女特有の言動も、今はどこか誇らしげだ。

「いや、会長は法を盾に俺たちを裁こうとした。とんでもない人だった」

「……もしかして杏のこと好きだった?」

「わからない」

 予想に反して、富士彦は冷静だった。両眼で、しっかりと未来の顔を捉えている。

「じゃあ、あたしを正当化する?」

 怒りを鎮めるような未来の口調。不思議と、もう穏やかさを取り戻していた。

「わからない。けど今は……生きてる人のためになりたいと思って。未来さんが血反吐を吐く思いで頑張ってくれてるなら……」

「なら?」

「俺も力になりたい」

 それは、富士彦なりのリスクテイク。女子の嬌声で簡単にかき消されてしまう、おぼつかないトーンだった。

「富士彦は馬鹿じゃないから、それがどういう意味かわかるでしょ?」

「未来さんにどれだけ酷いことされようと、俺なりのけじめを果たしたい。今までのは全部、優しさだと思ってるから。俺をここから引き離すための」

 彼の意志を『綺麗事』と捉えるか、『こじつけ』と捉えるか。

 どちらにせよ、彼は飢えに耐えられなくなっていたのだろう。

 まるで美談のようなふたりの和解、譲歩、歩み寄り――一片の疑問。

「ん? いやいや、わたしだって食べてたじゃん! てか、わたしのほうがよっぽど優しいし! こ、この……アホー!」

 未来ばかりリスペクトする野郎がいけ好かず、愛佳は激情に駆られた。部屋の二酸化炭素濃度が濃くなった代わりに、室内の空気が緩和した。一方の興奮で、一方の平静が生まれる。心の奥底では、全員のメンタルがコネクトしているのだ。

「ひとりだけ綺麗なままで居るなんて……できないんだ」

「そう。例えばひとりが田んぼに落ちる。助けようとしたふたりも、田んぼに落ちて泥んこになる。あたしは、そういうのが気持ち良いと思う」

 未来特有の変態思考を聞きながら、少年が前に出た。

 自任ではないだろうが、一歩を踏み出さなくてはならない気合いが窺えた。食べたら最後、味見では済まされない。始終を見知った上での行動だ。


 富士彦の背後に回りこみ、未来は「やるよ」と一言。彼の左肩に手を乗せ、パイプ椅子に座らせた。軽いタッチだが、メンタルをがんじがらめにするオーラは充分に出ている。これは刑の執行なのだと、愛佳の嗜虐的思考が働いた。鼻歌交じりに食器棚からお椀を取り出し、充分に温まった鍋の汁と具をよそうと、わざと足音を立てて富士彦に近づいた。

「ほーらフジさん、あーんして? お口、あーんだよ」

 そうして、絶望すら食してしまいそうな笑顔で、汁をすくった匙を富士彦の口の側へ持っていった。わずかな静けさが、彼の行動を制する。だから存外素直だったのだろう。迷いながらも、差し出された先端におずおずと口をつけたのだ。

「……ん」

 が、匙から口内へ移動した量はほんのわずかで、目を左右に動かしながら首を傾げるだけだった。

「んー? はい、もう一口」

 今度は唇に、丸い金属の先を押し当てた。二度三度、心を砕くように。すると覚悟のように大きく開口した。待ちわびた瞬間が訪れ、愛佳の鼓動が最大まで高鳴り、考えるよりも先に手が動いていた。一切の容赦を捨て去り、匙を彼の口内へ突っこみ、どんな反応をするかと期待した。

 ――返ってきたのは呻きだった。予想どおりである。

 未来もそれを予測していたらしく、無防備な口を力いっぱい塞いでくれた。小刻みに暴れる富士彦は、やがてその掌に観念して喉を動かした。

 第一段階はクリア。

 なるほどと愛佳は、彼にとって至極の時間であることを知らせるように、すくったメインディッシュを目前でゆらゆらさせた。昨日の愛佳がこの心境だった。今まさに、他人へ同じ苦しみを味わわせようとしている。たまらなく献身的な自らの言動に、息が荒くなり、全身が熱くなってゆく。

「愛佳、一気にやって」

 富士彦の口を覆っていた手が離れた。涙目になって、期待に応えようとする富士彦は不憫で、可愛すぎた。とうとう彼が染まってしまうのだ。

 やりきれない快哉かいさいが、本音の収まった収納棚をこじ開けようとしてくる。

 愛佳がゆったりと、一杯の糧を口の中へ運んであげると、吸いこまれるように消えていった。咀嚼回数は一回、二回と穏やかに続いたが――四回目で異変が訪れた。

「んっ……うぅ……!」

 嚥下えんげできずに、富士彦の喉が隆起したのだ。察知した愛佳は、両手の食器を調理台に置くと、彼の口を塞ぎながら耳元で呪文を唱えた。

「飲みこんで」

 今までの優しい発声をかなぐり捨て、強要に等しい力強さをもって。

 ――残酷に経過した数十秒。仲間たちに見守られながら、懺悔のように富士彦は喉を動かし、その塊を食道に流していった。彼の数十時間ぶりの食事は、背徳やら悲哀やら恐怖やらがブレンドされ、死ぬまで忘れられない味になったことだろう。

 第二段階もクリア。

 愛佳は興奮が冷めぬうちに、ステンレスの窪みに残った粕のような物体を舐め取りながら、「美味しい?」と不適格な質問をした。

「お、おぼったより不味くない……」

 一言も発したくないであろう富士彦の返答は絶え絶えだった。

「さあ、これでもフジさんもお仲間だよ? あはっ」

「逃げようが食べようが、この先ずっと。結局こうなるのか……」

 未来は一連の行為に対し、忌避するかのように目を逸らしていた。


 ここからが本筋だ。時間との勝負が始まる。

 最終段階を告げるように、愛佳のスマートフォンから起床アラームが鳴った。

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