3食目『 谷富士彦』

16 寸胴鍋をひっくり返したような雨

『逆にがないんです。言うなれば、それが唯一の不満でしょうね』



 夏休みも終わった九月初頭。

 本日は素敵な週末。だのに天気予報は、くもりのちあめだった。

 町を覆う灰色の厚板あついたは、教科が変わるごとにどす黒くなり、富士彦ふじひこの不安を増加させた。理由は傘を忘れた上に、折り畳み傘もロッカーに入っていないからだ。

 一方、帰りのホームルームが終わるなり、同好会仲間の女子たちは、

「じゃーね、フジさん! 降ってくる前に早く帰れよー!」

「あたしも今日、折り畳みないから貸せないんだ。悪いね」

 これ見よがしに傘を見せつけ、ぶんぶん手を振りながら教室をあとにしてしまった。どれだけ変人でも華の女子高生だ。募る会話もあるのだろう。


 取り残された寂寥せきりょう感。

 窓の向こう――放課後が訪れても雨模様あまもようは変わらない。学生生活を彩るイベントが起きない以上、家路を急ぐのが筋というもの。最悪、駅まで天気が持ってくれれば、あとはどうとでもなる。

 いざ! 富士彦も教室を出ようとすると、

「おーい、フジぃ。帰んのか?」

 へらへらした口調で近寄ってきた男子生徒に、足を止められた。

「あの……麩谷ふたにくん、傘ないんだよね? もし良かったらアタシたちと帰らない?」

 同じように、その横からひょっこりと顔を出してきた女子生徒が、満面のスマイルをもって、聖母のような思いやりを向けてきたのだ。

 生駒いこま一樹いつき脇野わきの若葉わかば。刺激が強すぎる採食同好会のメンバーに囲まれる昨今、富士彦を取り巻く人間関係の中で、唯一無二の良心を誇る友人たちである。


「脇野さん、今日は部活休み?」

「そうなの。それで生駒くんと話してたら、とのやり取りが見えて」

「しかしと仲良いな。ぶっちゃけ、どっちが好きなんだ?」

 そうして自然な流れで始まる、とりとめのない会話。彼女たち、およびアイツらとは当然、多食少女と霊感少女である。

「ちょ、ちょ……生駒くん! そんなこと、大っぴらに聞いちゃダメだよ!」

 その横で、無垢な若葉があたふたしている。なんて新鮮な反応なのだろう。心が洗われるようだ。圧倒的カタルシスだ。

「脇野さん、気にしなくて良いよ。ふたりはただの同好会仲間」

「嘘つけよ、やることやってんだろ? ズバリどこまでやった?」

 それでも納得しないのが男子というもの。じわりじわり、投げ技が繰り出されそうな距離まで接近してきた一樹は、富士彦の肩に手を回して濃厚に絡んできた。こういったうざったい詮索は、いかにも男子高校生らしくて――富士彦は決して嫌いではなかった。

「こないだの会話で、『材料調達は愛佳にアサインするわりあてるけど、バジェットよさんの関係もあるもんで、俺のヒューリスティックけいけんそくからすると、業務用スーパーに行くのがデフォかな』って横文字並べたら、ケツに膝蹴りをもらった。なぜか未来さんから」

「そ、それに関してはフジが悪い……」

「なんか同好会あそこ治外法権ちがいほうけんあるんだよ」

「こわっ。だって、この前もぱたかれってたよな?」

 ただただ事実を語っただけなのに、クラスメイトたちは目を丸くして一歩引いてしまった。の本性を知ったら、卒倒しそうである。

100%ひゃくパーサディストだろうね」

「それはオレも納得。光田みつだって怖ぇもん」

「ふ、ふたりとも……壁に耳ありかな。その辺にしといたほうが……」

 柔らかい立居に、大人しい顔つき――だのに、ひとたび口を開けば、垣間見せるのは汚い語調と、圧倒的な狂気。それが光田みつだ未来みらいという女である。富士彦は否定せず、あえて『怖ぇ』の定義も問わなかった。

 ――昨今は、愛佳の存在が合わさって、だいぶマイルドになったが。


「あの、それより早く帰ろ? ホントに雨降ってきちゃう」

 一呼吸。若葉は人差し指を立てて窓の外を指したあと、「ハイどうぞ」と水玉柄の折り畳み傘を差し出してきた。

「ありがとう。助かるよ」

 三人の話は途切れず、談笑しながら下駄箱に着いた。その途端だった、地面に叩きつけられる水音が校内へ襲来するとすぐ、沛然はいぜんとして雨が踊り狂い始め、容赦なく町を浸していったのだ。

「おーいフジぃ? この全体攻撃は、パーティが全滅するぞ」

寸胴鍋ずんどうなべをひっくり返したような雨だな」

「な、なんかそれ豚骨スープが降ってきそう、かな」

 予想以上の猛攻を見せつけられ、富士彦たちはやけくそに笑った。

 人声よりも雨の音が勝る下駄箱は、カビが生えそうな湿度で、独特な匂いが漂っていた。ひとまず廊下まで退き、降り注ぐ雨を恨めしく睨んでみたが、人間の力でなにができようか。てるてる坊主のほうが、まだ可愛げがあってご利益もありそうだ。

 ――実際はないが。


 男ふたりなら豪雨の中を突っ走ることもできるが、若葉を巻きこむわけにはいかない。三人で知恵を絞っている最中、ひときわ目立つ小さな体と、黒髪のボブカットが角を曲がり、堂々と廊下を闊歩してゆくのが目に入った。この学校で、身長一四〇センチ代の生徒なんて、片手で数えられるほどしか居ない。

「お、安藤あんどう会長だ。ちょっと挨拶だけしてくる」

「麩谷くんのところの会長さん? 上履きが緑だから三年生かな?」

「あれ三年なのか? ぱっと見だと中学生……いや、小学――」

「しーっ! 聞こえたらフォークで全身刺されるから! 丁寧に急所以外!」

 富士彦はクラスメイトをたしなめると、小走りであんの背中を追った。

「猟奇同好会かな?」

「猟奇同好会だな」

 ふたりの怯えた声を、後方で聞きながら。

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