36 スクランブルエッグよろしく(饗宴)

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 愛佳は初め、三人の戯言を聞き流していた。が、そのうち余計な想像を掻き立てるようになり、徐々に気分を害した。ややあって、胃の奥からこみ上げてくるものを感じた。それは、好きなだけ胃に流しこんでストレスを発散したあとの、例の症状とは似て非なる胸のむかつきだった。

「あ、やばっ……ち、ちょっ……!」

 トイレには間に合わないのを悟り、愛佳は粗相そそうを隠すように背を向けたが、それでも室内には嫌な水音を撒き散らし、本来の地声を単発的に響かせてしまった。自制が効かず、一時間前の朝食がリバースしたのは過食嘔吐の影響にほかならない。

「あー、やっちゃった。大丈夫かい? ふふっ」

 まさか、こんなにも抵抗なく、人様に醜態しゅうたい露呈ろていさせてしまうなんて。愛佳の思考はまるでスクランブルエッグよろしくグチャグチャになった。恥辱やら遺憾やら自愛やらで、もう理性を保てなくなり、恥の上塗りをするくらいならば――

「はぁ、なんだかなあ……」

 一拍。

 万人から好かれる女子高生を必要もないと、完全に吹っ切れてしまった。


「話を戻そう会長さん? わたしが、何某なにがしを食おうが食うまいが、どっちだって良いの。だってあの日も、学校のトイレでちょろっと吐いてるし」

 そうして口にしたのは、退勤後のサラリーマンが酒をちょろっと引っかけるかのようなトーンだった。愛佳は普段よりも低い地声をもって、一コマ前に嘔吐したとは思えない凛とした表情と、色のない目で杏を見据えた。珍妙なまでの感情の切り替えは三人が呆気に取られ、言葉を失うほどだった。

「……あ、あの日も?」

「こないだの郷土料理? って言うんですか。実はあれ、キレイに戻しちゃってるんですよ。吐きダコないから気づかなかったでしょ」

 語尾をぴたりと止めた愛佳は、右手の甲を見せつけながら、目を細めて薄ら笑いを浮かべた。それを見据える未来は、罪を自白してゆく被告――および、見えている落とし穴に自ら落ちてゆく非力な小動物の憐憫れんびんさえ感じていた。

「ふうん、神経性過食症とは。いやあ、それは恐れ入ったよ」

 杏が見せたのは皮肉めいた称賛と、ターゲットを認識する喜色だった。なにせ愛佳は、最大のタブーを自ら口にしたのだ。

 当事者でもないのに後ずさりする富士彦の行動は正しかった。右に左に視線を移し、次々と転変する場面に酔いかけていた。

一過性いっかせいのものではなく、それを続けていた君は、【五大の罪】に含まれ――」

「待て。わずらってる子を捕まえて【五大の罪】とは大層な御託宣ごたくせんだな」

 たまらず未来は、杏の会話をさえぎった。途端、黒目がちの瞳が見開くのを間近で見て、やはりぶっ飛んだ女だと再認識した。

「まともな家庭なら、善悪を親から教わるだろう? これって私の僻目ひがめかい? いや、違うね。ではなぜ鮎川さんは必要以上に食べてそれを吐く?」

「そりゃあ、感情よりも吐き出すのがラクなもんで」

「罪を犯し続けてきた代償は大きいと思わないかい?」

 人の心に亀裂を入れ、小さな穴を開け、指を押しこんで、こじ開けて。挙句、思うように人を動かす。とんだ讒言ざんげんである。新興宗教のやり口そのものだ。

 杏は自らの発言を心でリピートさせながら、悪寒さえ覚えていた。

「誰か居ないかしら? わたくしのために調理台に乗ってくださる方?」

 それでも杏は、舞踏会の相手を探すかのような動機づけモチベーションを見せ、おどけてみせる。その視線は一点集中だった。



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「足りないの。わたしはだから。つらかったと言ってもそれは薄っぺらい自己嫌悪。だから次の日、またいっぱい食べられると思うと世界が明るくなった。結果、吐けば吐くだけ、親や友人に合わせる顔が暗くなっていった。いっそ、この世が大きな胃袋だったら良いのに」

 愛佳の吐露はまるでモノローグ、見えない聞き手を探す告白だ。これっぽっちも迫真を感じさせなかったのは、吐き出したいのは本音ではなかったからだ。

「懺悔なら、突き当りのトイレの奥で聞くよ。実は、その奥に調理場があるんだ。最期の絶景を見たくはないかい?」

 それに答えたのは杏だった。が、

「ちょっと待てよ。会長はなんでそこまで食材を欲するんです?」

 ついに行動に出ようとする杏に、強い口調を向けたのは富士彦だった。

「あぁ、今や食人なんてまず行われない。それでも少数、欲する者が居るのさ」

 富士彦の言及に、杏が表情を変えた。さながら『話』が通用する相手にだけ見せる、大人の一面である。

「要するに、与える人ギバー受け取る人テイカーが釣り合ってない。どこのどいつが好き好んで、人身御供サクリファイスになるかって話か。で、採食同好会を隠れみのにし、適当に――名前に食材が入ってる生徒を候補にする。そして、会長の裏で手薬煉てぐすね引いてるであろう誰かさんが目を光らせてると? もしそれが認められるなら、満喫町はなんでもありですよ?」

「なにか裏づけでもあるのかい? と一蹴いっしゅうしたいところだけれど、まあ……ほかでもない君の質問だ。答えないわけにもいかないよね」

 ほどなく杏は、観念に近い表情を見せた。独擅場どくせんじょうの始まりである。

 右足、左足と、かかとから踏みこみ、第二調理室を歩み始めた。

「そうさ、別に私が食人をしたいわけじゃあない。私はただ、会長の役目ロールを与えられたにすぎない。旧家の娘という理由だけじゃあなくて、ほら、私は……曰くつきだからね。どうせ未来かのじょから聞いたんだろ? 私が弟を……」

 室内を歩き回っていた杏は語尾を濁らせ、掃除用具入れを開けると、モップを肩に担ぎ、モップ絞り器スクイザーを手に提げ、近場の水道の蛇口をひねった。給水の間も口を動かしながら。

「あれが事件にならなかった理由は定かじゃあない。私が小さかったから? 一種の病気と診断されたから? 安藤家の力が働いたから?」

「どれであろうと、こうして野獣を野放しにしてる理由にはなりませんけどね」

「そう、そこだよ。おそらく、が欲しているのは異常者だ。時に理性を突き破り、人さえ食材として見てしまう野獣なんだよ」

 富士彦は合点がいかずに、首を傾げた。杏が犯した罪はわかったし、彼女が嫌々この同好会の長をしているのも理解した。


 改めて富士彦は呼気を落ち着かせ、頭の中を整理した。

 ――この話を終結へ持ってゆくために。

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