27 鮎

 翌日。十二月十九日。

 一年四組では、帰りのホームルームが行われている。が、知ったことではない。

 今すぐにでも話したいことがあるのだから、後方の扉をノックもなくスライドし、生徒のみならず教諭の目線も集めつつ、ひとりの女子生徒の机まで迫るのは、あんにとっては仕方のないことなのだ。


「ねえ鮎川あゆかわさん? ちょっとツラ貸してくれない?」

「えっ、わたし? あっちじゃなくて?」

 正面。席に座る愛佳あいかは初め驚いた様子だったが、すぐに苦笑いを浮かべて、未来みらいが座るほうへ目をくれた。

「こんなとこまで来て……情緒不安定も大概にしろ」

 愛佳の目線をもらった生徒は立ち上がり様、腰に手を当てて歩み寄ってきた。教壇へ目をくれると、止めに入る役目の担任は動こうとしていなかった。代わりに席を立った富士彦ふじひこが間に入り、

「未来さんストップ、会長も落ち着いてください。ここで始められちゃ、関係ない生徒も、もちろん俺たちも困る。いったん廊下に出ましょう」

 同好会仲間にだけ聞こえるほど小さな声で、なだめようとしてきた。

 ブレない優等生っぷりは褒めてあげたいが、杏だって生半可な心持で足を動かしたわけではない。ほどなく富士彦に密着するようにして、袖の中に隠していた、むき出しのペティナイフを、優しく腹部に突きつけた。

「か、会長? 本当に頭イっちゃったんですか……」

 杏は、その強張った隙を見逃さなかった。不敵に口元を緩めると、

「ふふっ、君とイくなら是非とも。それから――名前で呼んでほしいなあ」

 全体重を込めて富士彦の体を押しのけた。体格差はあるが、不意をつかれた彼は、低めのスチールロッカーの縁に背中から激突し、なんとも鈍く、人を痛めつける小気味良い音が教室内に拡散した。

「いっ……痛っ! こ……こ、腰、腰……いわした……!」

 富士彦は濁った肉声とともに、その苦痛を実況しながら崩れていった。

「大丈夫かフジ! おい……あんた! いったい、なんだよ!」

 すぐさま駆け寄る生駒いこま一樹いつきと、

「や、やめろ……。マジで不安定な人だから……」

 それを庇おうとする富士彦の姿が、なんともマブな友情を醸していて、靴のまま顔面を踏みつけてやりたくなった。反面――健気で格好良くて、感服に値するふたりを是非とも夕飯に招いてやりたい衝動にも駆られてしまった。

 一方で、富士彦に好意を寄せているバド部の脇役ちゃんは、口をあんぐり開いて茫然としている。どういう理由にせよ、関わろうとしないのは正しい選択である。


 目前では無言で拳を握り、殴りかかりたい衝動を抑える未来の姿がある。人目によって理性を保っているのは明らかだ。

 彼女の性格が、クラスの平均から逸しているのは言わずもがな。不用意な言動は、無視やイジメの対象になると、過去のナレッジに照らし合わせているに違いない。

 仮に彼女が昔と変わらなければ、気に入らない奴を片っ端から殴り倒すだろうが、愛佳や富士彦の存在がある以上、奇行に及ばないことは簡単に推察できる。

「じゃ、この子は借りていくよ? はい、誰の異論もなーし」

 ひらひらとご機嫌で手を振る杏以外、皆が無言で、この嵐が過ぎ去るのを願っていたに違いない。観念したように立ち上がる女子。目を据える女子。苦悶の表情で腰を押さえる男子。その他大勢の生徒――


 あちこちの教室から話し声が漏れてくる廊下。

「会長さん。聞きたいことがあります」

 愛佳が、普段では考えられない低く抑揚のない発声をしてきた。杏は足を止め、「なにかな」と続きを促した。

「わたし小さい頃、満喫町に住んでたんです。で、会長さんと遊んだことありますよね? 安藤杏を略して『An-anアンアン』って呼んでた記憶があるんです。ん? あれ?」

「どうした?」

安藤杏あんどうあん? 逆から読むと……杏藤あんどうあん?」

「山本山かよ」

 ――今、ほんの一瞬。

 愛佳と未来をまとめている、富士彦の気苦労がわかった気がした。

「ま、まあ……君が言うなら、そういう過去なんだろう」

「どうしてなにも語らないんです? 採食同好会だって、小さい頃に会長さんから教えてもらったんですよ?」

「単純に記憶がないからさ。昔のことだから忘れているんだよ」

 愛佳は「ふうん」と、友人への相槌のように気軽なクッションを置くと、

「わたしは都心に引っ越したあと、An-anと別れた寂しさからイマジナリーフレンドを作り出し、会長さんを忘れていった。それがアナンという女の子だった。でも、わたしが空想という形で友達を作り出した要因こそ、会長さんと一緒に遊んでた、もうひとりの男の子にあった。確か、あざみくん? でしたっけ」

 はばかりたいであろう過去を、軽々しく早口に語ってくれたのだ。

「そうか、君は弟と遊んだことがあったのか。いやね、あざみはもう死んでしまったんだよ。最近まで、一緒に暮らしていたんだけれどさ……」

 杏は愛佳の発言にぽかんとしながら、ここ数年で起きた事実を口にした。

「え……死んだ? 一緒に暮らして? え、待ってなにを……だってアレ――」

 愛佳は青ざめながら、濁点の混じった疑問符を呈しようとしたが、

「まあ、なんでも良いさ。それより君に話があるんだよ」

 杏は構わずに歩き出した。

 愛佳は不服そうに、それでも素直にあとをついてきた。最寄の渡り廊下で足を止め、片足に体重をかけ、本題に移行する意思を表した。


「私は近いうち、光田さんと激突するだろう」

 本題を口にしてすぐ、愛佳が目を逸らした。が、杏は構わずに続けた。

「恥ずかしいことだが、小学校からの因縁でねえ。今回、彼女といざこざが再発してしまったわけだが……正直、怖くてさ。彼女は昔から、口より先に手が出るタイプで小中学校と孤立していたんだよ」

 杏の記憶に『鮎川愛佳』は存在しないが、向こうが思い出してくれたのなら好都合である。懐旧談かいきゅうだんでもして、少しでも心をこちらに向けられれば万々歳だ。

「えーと、つまり会長さんに加担しろと?」

「加担とは随分だね。私たちは過去に付き合いがあったんだし、濃厚な関係になれると思ってさ。お互いに、なくしたピースを合わせていこうよ」

 互いに、過去の扉を開くのはハイリスクだ。当然、愛佳も理解しているようで、着衣するクリームのニットセーターをぎゅっと握りながら、口を噤んでしまった。

「鮎川さん――いや、愛佳ちゃん? 君はどう思う?」

「わたし……」

光田みつだ麩谷ふたに――両名が魅力的なのは言わずもがな。私は到底、ふたりのカリスマには及ばない凡百ぼんぴゃくな人間さ。だから君に協力してほしいんだよ。もちろん、私で良ければ君の力にもなる。もし悩みがあれば、なんでも言ってよ」

「わたしこそ最大の一般人……なんの役にも――」

「話はこれだけさ。じゃあね?」

 端から愛佳を抱きこもうとは思っていない。彼女の感情を、一時的にせき止められれば良いのだ。問題は富士彦である。

 その辺の思春期男子なら、ボディタッチしつつ、甘い言葉を耳元に吹きかけてやればコロッと落ちる。が、頭が切れるわ、心のファイヤーウォールは堅牢けんろうだわ、運も強いわ――おまけに性格が良くて、誠実性が高い。

「待てよ? 誠実性、そこを利用すればあるいは……」

 逆に考えれば、彼をシンボライズする点こそ真の弱点かもしれない。

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