26 杏
とうとう
しかし納得できない。
この後輩とは仲が悪い。めちゃくちゃ悪い。すこぶる不仲だ、この先ずっと。
とはいえ踏みこんで良い領域と、そうでない場所をわきまえられないほど、彼女だって馬鹿ではない。であれば、この言動が友人を守りたいという意思なのだろう。どこまでもエゴイストな女だ。実に実に、ワガママな後輩だ。
また、この後輩が無策で来るとは思えない。であれば、真っ先に思いつくのは言質か。会話は録音されていると疑い、容易な返答は避けるべきである。特に、
「まったく、他人を救うなんてワガママな娘だね。あのふたりは、それを望んでいると? 彼らにこの町の秘密を伝えた上での行動かい?」
「伝えるわけないだろ? 満喫町で生活してようと、まっとうな奴は口にしない。歓迎会で出た料理だって、ゲテモノ系の肉を上手く調理しただけだったしな」
利いた
「それに勘違いするな。あたしはワガママなわけじゃない」
ただただ、笑っていた。久々に見た笑みは非常に奇怪だった。
「あたしは不真面目ってだけ。わかる?」
「なに?」
「知ってるか? 他人は変えられない、ゆえに自分が変わるしかない。エゴで結構、独善でなにが悪い。あのふたりは、町の事情なんて知らずに生きていけば良い」
「ほう、愛が重いったらないね? まるで束縛、干渉。それで友達なんて呼べるのかな。それとも自己犠牲のつもりかい? 私をどうにかできるとでも?」
「そうだな。あたしは、あのふたりを助ける良い方法を知ってる」
しこたま低く、本人しか聞こえない声量に嘲笑が混じった末、
「お前を食うんだよ」
どでかい爆弾が投下された。
大きなアーモンドほどまで見開いた目に色はなく、意識はどこか遠い時間にでもあるようだった。杏をバラバラに解体したあとを見据えているのだろうか。
杏は
二〇センチも身長の差がある相手に、力任せに襲われれば、おおよそ負ける。
「君はいったい、なにを言って……」
杏はあえて返答を淀ませた。だが反面、興奮も覚えていた。未来がここまで感情を露にできる相手なんて、自分以外に居ないと確信していたからだ。
「なにって――ん? えっ……?」
終始、攻勢を見せていた後輩が、急に肉声を発すると、動かなくなってしまったのだ。目線も口元も手足も、石膏にでもなったように、ぴくりとも。
なるほど、この反応の根本は、杏の背中にあるようだ。ほどなく目元が動いたのを確認し、障子のほうを振り向くと、広縁に小さな影が浮かんでいた。
「なんだ。どうした?」
杏は障子の向こうの存在を認識すると、体をひねって腕を伸ばし、縦の
「お姉ちゃんたち、大事な話をしてるんだ。急用じゃあなければ、あとに――」
弟は杏の呼びかけに対して相槌も打たず、じっと未来を見据えていた。同じようにその後輩も、弟を目線から外そうとしない。
「って、聞いてる? おーい、返事くらいしたらどうだ」
――もしかして? このふたり、デキている?
「あっ、光田さん! 弟をたぶらかす気か! そうは問屋がおろしポン酢!」
「だ、黙れ! 頭の中まで食材詰まってんのか! いや違う、あんたまさか? おい、お前それを……『認識』してるのか?」
様子がおかしい。この後輩、弟を見た瞬間ひどく狼狽している。
「君と弟は昔から仲良しだっただろ。
「え? 記憶がおかしいのは……あたしなのか? だって、あたしが昔この家に遊びに来た時……弟はもう……。いや、もう良い……あたし帰るわ」
後輩はばしっと言いきり、コートとバッグを手にすると
「ゲームくらいして帰りなよ。うちに来たってことは、覚悟はあるんだろ?」
「誰がやるか、お前との悪趣味なゲームなんて」
「シンプルに、ロシアンルーレットと洒落こもうか? シュークリームの中に、なにか楽しいモノを入れてさ」
「
「害虫はともかく、ボタン電池は死んじゃうだろ危ないなあ。そうだ、じゃあ私の生き血でも入れようか。そのくらいの代物を用意してやらないと、君とのゲームは成り立たないだろう?」
「あいにく、あたしに吸血趣味はないんだよ。逆に数リットル分けてやろうか、手切れ金代わりに。そうすりゃ帰らせてくれるか?」
「それはまた今度の機会に。貧血で倒れたら、誰が君を送っていくんだい? タクシー代だって馬鹿にならないだろう?」
さて、話が和んだところが頃合いか。ここで後輩を責めきったとしても、なにをされるかわかったものではない。追いこまれた羊は、時に猪よりも凶暴になる。
「まあ優しい先輩として、君の気持ちを汲んであげるよ。今日はこれでお開きだ。パーティの返事も期待しているよ? またおいで」
「……二度と来ない」
後輩が吐き捨てた言葉には力がなく、ふたたびナイロンで片足を滑らせながら、玄関へと歩んでゆく姿には力がなかった。
静かになった客間。
「ふう……危ない危ない。お前が来たら、あの子帰っちゃったよ」
「あの人、本気だよ。リアルファイトになれば、体格の差でお姉ちゃんが負ける」
「え、このままじゃ私がやられる? あんな不真面目な後輩に……? じゃあ、どうしたら良い? お姉ちゃん、このままじゃあの羊の餌食になっちゃう!」
「簡単だよ。外堀を埋めちゃえば良いんだよ」
杏が顔を青ざめるとすぐ、弟は淡々と胸の内を吐露した。無垢な破顔を見せてくれた数年前からは、まるで想像できないほどの冷笑を交えながら。
「外堀……? あぁそうか、あのふたりを」
杏は、弟の言葉を真に受けて同じように冷たく笑った。もう二度と、この家で笑顔なんて生まれないのだ。どうせ、誰も笑わないのだ。
汚点に鍵をかけても、施錠した隙間から後悔が漏れ出し、
「ははっ……」
卓に突っ伏した杏の目の裏では、同じシーンばかりが∞の記号を刻んでいた。広縁から吹きこんでくる、やけに冷たい風を感じながら。
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