42 『羅なんとか門』の下人

 第二調理室奥の女子トイレ。

 右手に用具入れ、左手に水道と鏡が備えてある。右奥に個室が三つ。突き当たりの壁に鉄製の扉がはめこまれ、鉄クズを溶接したかのような取っ手がついていた。禁断の扉は、高さ二メートルにも満たず、幅も四、五〇センチあまりだった。

 トイレの奥が調理室なんて不衛生極まりないが、それだけはばかりたい所業があると考えれば、まったく違和感を抱かなかった。

 ふと横目で鏡を見た時、セミロングの黒髪にウェーブをかけた、垂れ目で薄唇の少女と目が合った。そいつは数分前に人を殺した。そいつはこの学校で最も見覚えのある友人だ。そいつと毎日しゃべり、毎日笑い合っていた。

 開き直ると、愛佳あいか溜飲りゅういんが下がっていった。


 鉄扉てっぴの手前で、死体から手を離した未来みらいが、古びた二本のシリンダー錠のうち片方を鍵穴に差しこみ、ぎこちなく解錠し、内開きにした。

 先は暗中あんちゅうで、保健室のような消毒液の匂いに嗅覚が反応してしまう。床はビニルの感触で、うるさいくらいの無音がひしめいている。

 未来がまず入室し、スマートフォンを用いて入口寄りのスイッチを探し当てると、蛍光灯に明かりを灯してくれた。

 明かりの下に広がったのは、四方がコンクリートの、窓がひとつもない空間で、中央に鎮座する、手術台を模す大きな調理台が初めに目を引く。

 壁に設置されたステンレスシンク、ガス台、冷蔵庫はすべて業務用サイズで、部屋の奥には、天井から伸びるかぎが存在を誇示していた。真下には水道と排水溝が備えられており、血抜きを行う光景が脳裏をよぎる。

 定期的にメンテナンスされているのだろう。換気扇に油の付着はなく、床材やシンクにも埃は積もっていなかった。調理器具も万全の状態で管理され、調味料の賞味期限も問題はない。

 圧倒されながらも三人で死体を調理台に置くと、無意識にそれから離れた。


「……さて、人間を解体するなんて想像しただけで吐きそうなんだけど? あはっ」

 愛佳は空笑そらわらいのあと、あからさまに腕を組んだ。安藤あんだったモノの慣れの果てを想像し、わずかに胃液が上ってくる。

「放っておけば死斑しはんが出るし、すぐに腐る。だから……あたしがやる」

 未来の言葉は、空威張りには見えなかった。が、それでも調理台に乗せた食材をじっと見据えている。包丁を持てば、胴震いするのだろうか。

「未来さん……もうやめよう! というか、やめてくれよ……」

 そのうち男声が室内を反響した。ずっと黙りこくり、状況に流されていた富士彦ふじひこが、とうとう耐え切れず止めに入ったのだ。彼の懇願こんがんは震えており、普段の推察力や、泰然とした雰囲気はどこにも窺えない。

「富士彦? 大声を出すのは恐怖があるから?」

 未来が手に入れた冷静さは、狂気でコーティングされた感情にほかならない。

「そりゃそうだろ。ふたりが純粋に怖いんだよ……。だ、大体……素人が勝手に捌いて良いのか? ほら、資格? ってやつだって」

 富士彦の反論は、民間資格を盾にした糾弾だった。この期に及んで、未来がそんなものを気にしているわけが――

「あたしが資格を持ってないなんて、いつ言った?」

「え……」

 思った矢先、未来は食い気味に富士彦を圧倒させた。同様に愛佳も、言葉を鎮圧させられてしまった。

「いや、誰が食ったことないなんて言った? ふふっ」

 静かに唸る未来のド直球が、場を完全に支配する。

「あたしは、本当にふたりを守りたい? ただ杏を食いたいだけ? どちらにせよパーティまであと二日。あたしは死ぬ気でこの食材を処理する、ふふふっ……」

 未来からは無意識の微笑みがこぼれていた。

 本能とはおっかないものである。この憑かれたような姿を見る限り、愛佳がどれだけ上っ面で狂乱めいても、潜在的に敵わないのだ。

 未来は右へ左へ、ふらふらと死人へ歩み寄ると、その上体を起こして、桜色のパーカーから順に服を引っぺがし、脱がした衣類を部屋の隅に置いた。

 さながら、『羅なんとか門』の下人を見ている気分だった。

 そうして自らもベージュのカーディガンを脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツの袖を肘までまくり、長いウェーブをトップでまとめた。

「さて、あとは」

 次に未来は、棚からニトリルゴム製の手袋と、使い捨てのエプロンを取り出し、それを装着すると、ついに牛刀を手に取って一呼吸した。

「……はぁ」

 そのあと大きく深呼吸を行う未来の、いっぱいいっぱいの姿を見兼ねた愛佳は、

「しゃーない。わたしも手伝うかな」

 横槍のように、病的興奮に介入する決意をした。

「はい?」

 素っ頓狂な声を上げた未来は、ただ目を丸くしていた。

「会長さんいわく、わたし一回食べちゃったんだよね」

「いや、だからアレは違っ――いや……違わないのか。わかんない……」

「どっちでも良いよ。食へのモチベーションも、胃袋のサイズも人並み以下のみぃちゃんひとりじゃ、この食材には確実に負ける。食事は一種の戦いだよ?」

 愛佳はさらに未来の心に侵入すると、彼女は目も見ずに「わかった……」と漏らした。それでも彼女の手は動かなかった。おそらく葛藤だ。友人の善意には甘えたいが、それを拒む良心があるのだろう。愛佳も同様に、同好会会長の死に顔を見てからずっと生きたそらもないのだから。

「わかった、行動に移せないのはこの顔があるから。みぃちゃん、会長さんってわからなくなっちゃう前に、言い残したことはない?」

 愛佳は独自の理論をばら撒きながら、未来と同じ格好に着替えると、わざとらしく肩が触れるように、その横に立った。

「死んだら物になる。なにも聞こえないの、わかる?」

「霊感少女は死体と対話できないの? ここに霊は居る?」

 笑みを浮かべた愛佳は、つくづく霊の存在を馬鹿にしていた。

「人を殺めた瞬間、そんなものは消え去った。確かにあたしには見えてたの。けど、本当に霊だったのか……ただの妄想だったのか……」

 未来は続けた。最も恐ろしいのは人間様だと。それを自覚して霊感が消えたと。

 それもそれで、痛々しい皮肉である。

「でも、火葬の前って死んじゃった人に言葉かけるじゃん」

「えぇ? ああ……じゃあ、言い争う相手が居なくなって寂しいな」

「わたしは、せめてかないように食べてあげる。はかない人だけに」 

 愛佳が一息で言いきった渾身のギャグは、ふたりにスルーされた。不満げな視線を富士彦に寄せるも、地球外生命体の認識を拒むかのように顔を逸らされてしまう。

「っ……フジさんは?」

 と、作った微笑みで愛佳が迫る。

「ごめん……」

 と、表情を作らずに富士彦が壁を作る。

 三人しか存在しない、畳を十ほど並べられそうな部屋は、気を抜くと甚大ではない静寂に押しつぶされそうになる。

「タンパクだなあ。せっかく助かったんだから、必死に生きようよ。わたしはフジさんとも、みぃちゃんとも絶交したくないんだよ? 大人になっても、ずーっと」

「……フラグ立てるなよ」

 富士彦の諦めが心地良かった。ぺたぺたと靴音を鳴らし、調理台に戻った愛佳は、発破のごとく「やるよ!」と威勢の良い一声をかけた。同時に、調理器具を握る未来の表情も諦めが宿っているようだった。

「あ、ちょっと待って。先に血抜きしないと」

 首を落とす寸前。手を止めた未来が、ふたたび目線で富士彦を拘束した。今回ばかりは彼も本気で抗うかと思ったが、

「そこに吊るすのを手伝うのか?」

 と、あっさりした返答が返ってきた。

 ――もう、なにもかもがおかしかった。


 三人で協力して食材を逆さに吊るし、未来が頸動脈に包丁の切っ先を入れると、蛇口をひねったように流れ出したのは、まるきり赤絵具だった。それは、どろどろとしたファンタジーの生物を模し、次第に排水溝へと吸いこまれてゆく。

「ねえ富士彦? あたしらのローファーと、このほとけさんの靴を下駄箱から持ってきて。あと、仏さんの上履きを下駄箱に戻す作業もお願い」

 しばらくほうけていた未来が、滴る血から目を離すと、出し抜けに指示を出した。

「完全犯罪は無理だぞ。どうせ防犯カメラに写ってる」

「だとしても、やるだけのことはやる。あと愛佳のゲロと、杏が焼いたクッキー、散らばった菜箸、あたしのブレザー――とにかく調理室を片づけて、鍵を閉めてきて」

「おがくず持ってねえよ……」

 富士彦は文句を吐きつつ、未来が放り投げた鍵を上手にキャッチし、秘密の調理室から出ていった。この先どこへ向かうかは、彼次第である。

「みぃちゃんの言うことは聞くね。あと女の子がゲロとか言わないの」

 人口密度が減ってすぐ、愛佳は不満をつぶやいた。

「殺人犯に逆らわないのは、まともな心情でしょ」

「さっさと逃げて警察行けば良いのにね。馬鹿みたい」

「……やっぱり愛佳は怖い」

「いやいやいや、あなたのほうが怖いから」

 とどのつまり、今日から引きこもり大食い生活が決定した。

 教諭も生徒も近づかない、警備システムに引っかかる心配もない、安息空間でのパーティである。さて、丸二日は己との戦いだ。他人の信用は禁物である。

 どうせ全員、狂ってしまうのだから。強迫観念を強く抱きながらも、どこまで正気を保っていられるかと、愉楽も見出していた。

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