40 鮎未麩杏(あゆみふあん)

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 ぴんと伸びた二膳の菜箸が、小さな闇から解き放たれた。

 ぴんと張り詰めた空気が、不意に舞い戻ってきた。

 未来みらいは恐る恐る片目を箸の先端へ向けると、しばらくラグを置き、十歳以上も老けこんだような溜息を吐き出した。そうして目線を順々に巡らせてゆく。

 自分にだけ見えるように、菜箸の先端を確認する愛佳あいか富士彦ふじひこの表情は、特に変わらなかった。ふたりの感情は読めない。

「クソ……参ったな。だから私は嫌だったんだ……」

 やがて杏が恨み言を漏らした。

「調理室でクソなんて言わない。そういやあんは読書する? ポーは知ってる?」

「洋書は読まないよ……それがどうした」

 未来が、おおよそ杏が当たりを引く、と信じてやまなかったのは、四人の中で最も読書を嗜んでいたからだ。それでも、我先に菜箸を見たのは勇気ではなく恐怖にほかならなかったが。

「いや、知らないなら良いけど」

 言いながら未来は、杏に一歩近寄った。そしてまたもう一歩。くじの結果がどうあれ、ここで杏の背中に刃物を突き立てる意味も、食材にする必要もないのだ。

「未来さん、もう良いだろ? これ以上は……」

 富士彦は焦燥を覚えながら、因縁のふたりを遮るように割って入った。杏に背を向けてその目を覗きこむと、「わかってる」と未来。

 初めから単純なことだったのだ。自分たちは無害だと証明し、採食同好会の退会を伝え、今後は二度と関わらないことを約束させれば目的達成なのである。

 一瞬、リザルト画面が目の前に浮かんだ。最低評価の結果リザルトが。



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「ねえ杏? あたしはさ――」

 富士彦の肩に軽く手を乗せた未来は、その横顔を見ながら、杏に目を移し、ふたたび対峙しようとした。その瞬間だった、富士彦が肉声を上げ、ひざから崩れ落ちていったのだ。未来はそれに反応する余裕も支える力もなく、動悸と発汗を覚えた。

 先ほど、未来に降りかかった出来事と照らし合わせれば、富士彦が同様の攻撃を受けたのだと、容易く答えに行きつける。現に腹部には、まだあの痛みが残っているのだから。

「スタンガン……?」

 富士彦が倒れてゆく最中、その影に隠れていた小さな影が動いた。菜箸を握った右手にスナップを利かせ、未来の顔めがけて振りきったのだ。未来はよろめきながら後退し、一撃を回避した。杏がそれを見逃すわけがなく、左手に握っていたスタンガンのスイッチを入れながら、間合いを詰めていった。

 が、幸か不幸かスタンガンはどこまでも護身用に過ぎない。威力は絶大でも、攻撃範囲があまりにも短く、加えて握っていたのは杏の利き腕ではなかったのだ。

 未来が闇雲に繰り出した蹴りが左手を捉えただけで、ピンボールのように壁や机を跳ね返り、視界から消えていった。

 最大の脅威を無力化したのも束の間、慣れない蹴りで体勢を崩した未来を、矢のように閃く菜箸が襲った。

「あぶなっ……ちょっと!」

 膝を曲げた中腰で踏ん張り、杏の腕を鷲掴みにした。あと十センチで眼球を抉られるかという距離で、追撃の先端が小刻みに震える。

「なんでだ!」

 片膝を突きそうな低い体勢のまま時が硬直し、どんどん杏の重量が圧しかかる。力比べなら未来のほうが上だが、それはダメージを度外視した場合である。

「なんで……なんでだよ! 羊のくせに生意気なんだよ! 祭壇は君のほうがお似合いじゃあないか! 私は死にたくない……や、やだっ……!」

 杏の恐怖は、表情が物語っていた。正気を失った黒目が、一点のみを見つめる。

「約束も守れないのかよ、下種げすが……! 落ち着け!」

「ジンギスカンがしゃべってるなあ……ハハッ! だと罵れよ!」

 罵りと正論を兼ねた未来の声は届いていない。なおも杏は体重をかけ、未来の顔を突き刺そうとする。ひきつりながら、流血を覚悟した矢先だった。

 突然、杏の頭部で鈍い音が生まれた。灰色の水が未来の顔に跳ね、ほどなく杏が前のめりに床へ転がった。未来の泳いだ目線の先で表情なく仁王立ちしていたのは、モップを両手で握る愛佳だった。その立居には、先端の金具部分を杏の頭部に直撃させた確たる証拠が残っていた。



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「……え? 殴り倒した?」

「あはっ、正当防衛だよ?」

 杏は、自身になにが降りかかったのかを理解しようと、頭部を押さえながら起き上がろうとした。それを見逃さず、小さな体に近寄った未来は、右手の菜箸を踏みつけると、床を擦るように蹴り飛ばし、追撃のようにあごを蹴り上げた。

 手荒な行為にいたった理由は、たちまち抱いた――憎しみだった。

「おい杏……いい加減にしろ。なんで富士彦まで巻きこむ? なんで……」

 そのうち計り知れない悲哀と、殺意が湧いてきた。床に転がったこの狂犬を放っておけば、すぐにでも舌をだらりと垂らし、涎を滴らせながら、こちらの首根っこに食いついてくる。であれば、やるべきことはひとつなのだ。

「そうか……正当防衛か……。やらないと、やられる、やらないとやられる……」

 未来はふらっと歩を進め、もがく杏に対してマウントポジションを取ると、両手を首に回し、力を込めた。

 次第に漏れてきたのは、聞くに堪えない肉声と、詰まった排水溝から水が湧き上がるかのような不快音と、ちょっとの涙と涎だった。自慢の小顔は、みるみる晩秋のカラスウリ色に変わり、小さな体は殺虫剤をかけた芋虫さながらに暴れ始めた。

 杏は首に絡みつく両手を引き剥がそうとするが、体重がかかっており、びくともしない。苦し紛れに腕を伸ばし、その色白の顔を引っ掻いたが、生死をかけている以上、もはやダメージとしては加算されなかった。


「――ダメだ……まずい! あ、愛佳……未来さんを止めないと……!」

 富士彦は思いどおりにならない体に嘆きながら、ノーダメージの少女に哀願した。

「止める? いやいや、わたしには無理だよ?」

 ほどなく愛佳は、体を震わせる少年に近づき、現実を突きつけた。

「え……嘘、だろ……?」

「あのね、フジさん。わたしはどこにでも居る女子高生なんだよ? 犯罪者には近づかないってのが、まともな心理じゃん?」

 見たこともない愛佳の無表情。クラスで見慣れたコミュニケーションの化身は、町ですれ違う程度の『他人』に成り代わっていた。

「そんな……じゃあ、俺が、やらないと――ぐぇっ……」

 痛みに耐え、這いながら未来の手を止めようとしたが、その体が急激に重くなり、空気が抜けるように苦悶が漏れた。

「コラぁ! ふたりに近づくと危ないよ! ほら、動かないの!」

「バカ……どけってば! やめろ……やめろって! 未来さん!」

 いくら痩身とはいえ、まともに動ける状態ではない富士彦にとって、少女がひとり馬乗りになれば、行動なんて簡単に制されてしまう。背中から振り落とそうとしても、全力で抵抗された挙句、己の無力さを示すだけだった。



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 うっすら開いた杏の目線の先には、転がった菜箸があった。死に物狂いで手を伸ばし、反撃を試みようとするが、指先が床をタップする虚しい音が、学校から隔離された閉鎖的空間に響くだけだった。――この世界は恐ろしく寂寞としていた。

 杏の視界には、愛佳も富士彦も映らない。ふたりは確実に、未来の背後に存在している。それなのに、こちらに介入してこようとはしないのだ。境界線があった。

 彼岸ひがん此岸しがん彼世あのよ此世このよ。自然と人間。

 そうだ、人間なんて皮を一枚めくってやれば、誰も彼も汚らしい見た目なのだ。

 どれだけ美麗な人間でも、必ずはばかりたい一面がある。

「――は、早く死んで! じゃないとあたしがおかしくなる!」

 未来は生きるために仕置を遂行している。

 懺悔ざんげのように、観念のように、輪廻りんねのように、かすれる声で叫びながら。

「うっ……が、ぐ……っ」

「早く……弟のところへ逝け!」

 絞殺とは意外と時間がかかるものだ。

 意識がぼうっとし始め、自身がなにをしているか定かではなくなってきた頃、十分ないし二十分と錯覚した地獄の刻みは、唐突に終わりを迎えた。

 数センチ浮いていた杏の頭は、その自重を支える力が消えると、落下するボールのように床に激突したのだ。音が真っ先に、事実を鮮明に伝えてくれた。

『必死で抵抗する者』、『必死に息の根を止めようとする者』

 両者はいつしか、

『抵抗を諦めた物』、『殺人者』に変わった。



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 どんな表情をしていたのだろう?

 般若はんにゃ? ひょっとこ? はたまた、能面のうめんのごとく無表情か。

 未来は両手に、死ぬまで消えない感触を手に入れてしまった。魔物のような手を離し、内股気味に転がる大の字を見下ろす。

「し、死んだ……死んだよ……」

 未来はわけもわからず、死体が着衣するパーカーのポケットを探り、二本の鍵を入手した。一本は調理室、もう一本はおそらく、トイレの奥へ通ずる部屋の鍵だろう。

「っ、はあ……はぁ……こうするしかなかった……」

 不思議だ、胡蝶こちょうの夢というのだろうか。

 一生のうちで取り返しのつかない悪事に手を染め、後悔と懺悔を繰り返すはずの心情なのに、不毛な浮世で生きてゆくための自己への擁護で上塗りされた。

 だからこそ冷静で居られた。

 意思とは反して、とんでもなく恐ろしい心が組み上がっていたのだ。


 ――今後の人生の歩みが、不安である。

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