11 湿気た茶請

 ――セミは食べると美味しいらしい。

 けれど昨今、美味しい物がほかにたくさんあるので、蝉は食べない。


 七月。

 未来みらいひら獅子じし高等学校の正門手前で、愛車のペダルから右足を外し、左足一本でバランスを取りながらブレーキを握ると、地面へ飛び降りた。駐輪場は定位置が空いていなかったので、そのすぐ横に停め、ふと空を見上げた。

 サドルから降りて実感するのは、ポロシャツの中でじんわりとまとわりつく汗である。冷え性の未来も、この時季になるとスクールタイツは脱ぎ捨てる。とはいえ、半袖の上にグレーのベストは常に着ているが。


 教室に入ると、未来はあるチラシをカバンから取り出し、机上でだれている湿気しけ茶請ちゃうけに近づいた。

「おはよ。しゃきっとしなさい」

 未来は、時化しけた少女の意識など構わず、反応が得られるまで肩を揺らし続けた。すると、飼い猫のような遅い動作で首を回し、つむりかけの両眼を向けてきた。

「今わたし溶けそう……。あ、おはようございます……」

 愛佳あいかの『本音と建前』から感じ取ったのは、強制リブートに対する不満だった。不意に、彼女から立ち上った匂いが鼻に抜け、頭がくらっとした。

「朗報があるんだけど。ほれ、今日の放課後行かない?」

 未来は、鎮座する上半身を強引に机の端へずらし、空いたスペースにカラーのチラシを広げた。机にこぼれた涎を不安視したが、幸いチラシは浸水しなかった。

「むむ? わたしに戦場へおもむけと?」

 愛佳がチラシに目を向けた途端、死んだ魚の目に精力が戻ってきた。理由は安直――未来が持参したのは、スイーツビュッフェのオープンセールを謳ったチラシだったからだ。

「税込で千五百円だし、結構お得じゃない?」

 愛佳は梅雨が明けてから、慢性的に夏バテと嘆いていた。だからこそ糖分をちらつかせ、元気を取り戻してもらおうと思ったのだ。

「今月、お小遣い全然使ってないから余裕余裕!」

 また、愛佳と知り合って数ヶ月が経つが、未だに牛飲馬食ぎゅういんばしょくたる姿を垣間見せることはなかった。未来には、その食いっぷりが見たいという不純な動機もあったのだ。

「みぃちゃん、小食のクセして甘いのはいっぱい食べるよね。の時も、お菓子作りだけは活き活きして」

「公で口にすな。シャーペンの先端で脇腹えぐるぞ」

 時に愛佳は、さらりと採食同好会の名を口にすることがある。自覚がないのか、ただ馬鹿なのか――制止する時は、いつもひやりとする。

「ごめーん。てか、さらっと怖いこと言わないで」


 ――約束を取りつけてからは、チャプターを飛ばすかのごとく、一日が粗く過ぎていった。少なめの昼食を済ませ、六時限目まで糖分まみれの思考で授業を受け、帰りのホームルームが終わると、

「よし、行くぞ愛佳」

 席を立った未来は、ダラダラと帰宅準備をする愛佳を促した。

 その間、富士彦ふじひこに帰りの挨拶をしようと、未来は「おーい」と軽く声をかけながら手を振った。が、クラスメイトの生駒いこま一樹いつき脇野わきの若葉わかば両名と駄弁っており、まったく気づく様子がなかった。

 無性にいじらしさを覚えた未来は、静かに間合いを詰めると、振り抜くと決めていた平手を、大きめに振りかぶり、富士彦の腰の付け根に打ちかました。刹那の乾いた音と、理解が追いついていない少年の表情があまりにもマッチしていて、

「っ……あたしたち帰るから。じゃあね」

 本題を伝えるよりも、笑いをこらえることに努めた。

「痛いっす! お疲れ様です!」

 即座に返ってきたのは、舎弟のような全力の挨拶だった。そのすぐ横で、

「バイオレンス光田……」

「み、光田さん……麩谷くんを、あまりイジめないであげて……」

 目を丸くするクラスメイトの反応も無性に面白くて、思わず吹き出しそうになった。代わりに、背後から近づいてきた愛佳がからからと笑い、「バイバーイ」と本日の終業を告げた。


 愛佳の歩調に合わせて自転車を押し、十五分ほどで到着したカフェの店頭では、いくつかのグループが列を作っていた。それでも、制限時間六十分の完全入れ替え制なので循環は良さそうである。

 ふたりが並んでから二十分もせず店内へ案内され、店員からシステムの説明を受けると、未来は臨戦態勢のごとくウェーブのかかった後ろ髪をシュシュでまとめた。

「気合充分だね。ケーキは逃げないってば」

 反面、愛佳はゆるりとしていた。先陣を切るかと思っていたが、汲んできた水を一口飲み、体をクールダウンさせているのだ。水の飲み放題に来たのではないのだが――いや、これがクイーンたる余裕なのだろう。

「ほら、行くよ愛佳」

「はいよー」

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