18 人名とは今川焼と同じ
「ささ、仕事仕事」
初めは億劫とさえ思った手伝いも、授業で感じる五十分よりも早く過ぎていった。ある程度の作業を終え、最後に床の拭き掃除を済ませると、用具を片づけ、ふたりは充実した溜息をついて向かい合った。
「お陰で早く終わったよ。ところで
「いや、傘は
「君って意外と女ったらしだよな。採食メンバーに注意喚起しておこうかなー?」
「やめ……っ! わ、わかりましたよ……ご一緒しますから!」
「ふふっ、決まり決まり。すぐ近くだから安心して」
藪から棒にお呼ばれし、
「はいコレ」と手渡された
少女を蛇の目の下へ招き入れるとすぐ、ふたりで入るには充分すぎるスペースで、小さな体が寄り添ってきた。傘の範囲内では思うように身動きが取れず、富士彦は気恥ずかしさと誇らしさを傘の柄に引っ提げ、水色のスニーカーと並行した。
エスコートを始めて五分もせず、一際大きな平屋が見えてくると、
「ホラ、あそこが私の家だよ」
杏の指先が、門構えまで立派な、
敷居を跨いで玄関へ。年季が入った木枠の引戸を開けた杏は、鍵を開ける様子はなかった。が、その動作の間には『ただいま』も『おかえり』も存在しなかった。
「おじゃまします」
安藤邸に上がった富士彦は、
「ゆっくりしていってね。どうせ夜まで降るんだから」
座布団を差し出してきた杏は、茶菓子を持ってくると言い残し、家の奥へ消えた。
他家はいつでも独特な匂いがする。掛時計の秒針が定期的な調べを刻み、ガラス戸から見える庭園に落ちる雨音とマッチしそうで、していなかった。心地は良い。
杏を待つ間。圧迫感のある部屋で、あちこちを見回してしまう。
なぜだろうか、客間は涼しいのに汗が噴き出てきた。納得に導けない、客間の違和。考えを巡らせていると、
「おーい、てるてる坊主作ったよ」
富士彦の耳には、茶目っ気のある声と、先程とは異なる足音が入ってきた。
びくっとしながら目線をずらすと、くるぶし丈の靴下を脱いで、わずかに涼しい装いになった杏がにやにやしていた。無防備に生足を晒す行為が、男子の激情をどれだけ突き動かすか理解していないのだろうか?
「どーぞ」
杏は茶色い液体が入ったグラスをふたつと、茶菓子が入った木製の
「あ、どうも。いただきます」
富士彦は生足から目を逸らし、現代ではニーズのないティッシュ製の晴れ乞い人形を意識した。
「会長お茶目ですね」
「そういや『てるてる坊主』の童謡には、首をチョンと切るって歌詞があるんだ」
「前言撤回」
「ふふっ。それよりさ『会長会長』って、私ゃ生徒会長じゃあないんだ。せっかくだし、名前で呼んでくれない?」
すると杏は、富士彦と手が触れるくらいの距離まで近寄ってきて膝を曲げると、足を崩しながら舌たるく上目遣いしてきた。
どうやら、杏が求めているのは固有名詞のようだ。が、気さくに下の名前を呼べる仲ではない。時として、人名とは
「あ、安藤さん?」
「ふーん? まあ、不服だけど今はそれで良いよ。ところで気になってたんだけど、麩谷君が採食に入ってくれたキッカケってなんだったの?」
杏は座卓に頬杖をつき、体勢を変えながら流し目を向けてきた。その際、不意に足が触れた。ひとつひとつの動作は、わざとやっているとしか思えない。
その感触や体温に気を取られないように、富士彦は質問に集中した。
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