18 人名とは今川焼と同じ

「ささ、仕事仕事」

 あんの号令を皮切りに無駄話がぴたりとやみ、雨音をBGMに黙々と体を動かした。時折、彼女の様子を窺ってしまうのは、言い知れぬ安心感を醸していたからだ。年上とか同好会の長とか、そういった依存心いそんしんよりも、存在そのもの『アトモスフィアふんいき』に近かった。


 初めは億劫とさえ思った手伝いも、授業で感じる五十分よりも早く過ぎていった。ある程度の作業を終え、最後に床の拭き掃除を済ませると、用具を片づけ、ふたりは充実した溜息をついて向かい合った。

「お陰で早く終わったよ。ところで麩谷ふたに君、これから暇? 良かったらウチで茶でも飲んでいかない? ほら、お礼も兼ねてさ。相合傘で帰ろうじゃあないか」

「いや、傘は脇野わきのさんに借りたんで」

「君って意外と女ったらしだよな。採食メンバーに注意喚起しておこうかなー?」

「やめ……っ! わ、わかりましたよ……ご一緒しますから!」

「ふふっ、決まり決まり。すぐ近くだから安心して」

 藪から棒にお呼ばれし、惑乱わくらんした富士彦ふじひこ弁舌べんぜつに乗っかった。杏のプラベートに足を踏み入れるなど、想像もしていなかったのだ。


「はいコレ」と手渡された長傘なががさを持って下駄箱へ。開いてみると、うぐいす色と白色のじゃを取り合わせたモダンな和傘だった。配色に影響され、抹茶ラテを欲しながら三年生の下駄箱へ行くと、ひさしの下には杏が置物のようにちょこんと立っていた。

 少女を蛇の目の下へ招き入れるとすぐ、ふたりで入るには充分すぎるスペースで、小さな体が寄り添ってきた。傘の範囲内では思うように身動きが取れず、富士彦は気恥ずかしさと誇らしさを傘の柄に引っ提げ、水色のスニーカーと並行した。

 エスコートを始めて五分もせず、一際大きな平屋が見えてくると、

「ホラ、あそこが私の家だよ」

 杏の指先が、門構えまで立派な、黒塀くろべいに囲まれた旧家を差した。

 敷居を跨いで玄関へ。年季が入った木枠の引戸を開けた杏は、鍵を開ける様子はなかった。が、その動作の間には『ただいま』も『おかえり』も存在しなかった。

「おじゃまします」

 安藤邸に上がった富士彦は、広縁ひろえんから客間へ通された。客間の障子は開いており、押入れを含めて十じょうほど。広縁の先にはかわやがある。

「ゆっくりしていってね。どうせ夜まで降るんだから」

 座布団を差し出してきた杏は、茶菓子を持ってくると言い残し、家の奥へ消えた。

 他家はいつでも独特な匂いがする。掛時計の秒針が定期的な調べを刻み、ガラス戸から見える庭園に落ちる雨音とマッチしそうで、していなかった。心地は良い。


 杏を待つ間。圧迫感のある部屋で、あちこちを見回してしまう。

 床柱とこばしらが伸びていて、その左には床の間がある。すぐ右には押入れとふすまがある。顔を上げると欄間らんまがある。

 なぜだろうか、客間は涼しいのに汗が噴き出てきた。納得に導けない、客間の違和。考えを巡らせていると、

「おーい、てるてる坊主作ったよ」

 富士彦の耳には、茶目っ気のある声と、先程とは異なる足音が入ってきた。

 びくっとしながら目線をずらすと、くるぶし丈の靴下を脱いで、わずかに涼しい装いになった杏がにやにやしていた。無防備に生足を晒す行為が、男子の激情をどれだけ突き動かすか理解していないのだろうか?

「どーぞ」

 杏は茶色い液体が入ったグラスをふたつと、茶菓子が入った木製の菓子器かしきをひとつ座卓に置くと、広縁ひろえんのガラス戸を開けて、風鈴が吊るされた軒下のきしたにチープな人形も吊るした。

「あ、どうも。いただきます」

 富士彦は生足から目を逸らし、現代ではニーズのないティッシュ製の晴れ乞い人形を意識した。

「会長お茶目ですね」

「そういや『てるてる坊主』の童謡には、首をチョンと切るって歌詞があるんだ」

「前言撤回」

「ふふっ。それよりさ『会長会長』って、私ゃ生徒会長じゃあないんだ。せっかくだし、名前で呼んでくれない?」

 すると杏は、富士彦と手が触れるくらいの距離まで近寄ってきて膝を曲げると、足を崩しながら舌たるく上目遣いしてきた。

 どうやら、杏が求めているのは固有名詞のようだ。が、気さくに下の名前を呼べる仲ではない。時として、人名とは今川焼いまがわやきと同じだ。人の感情や、育った環境によって呼び方が変わってゆく様はそれに等しい。

「あ、安藤さん?」

「ふーん? まあ、不服だけど今はそれで良いよ。ところで気になってたんだけど、麩谷君が採食に入ってくれたキッカケってなんだったの?」

 杏は座卓に頬杖をつき、体勢を変えながら流し目を向けてきた。その際、不意に足が触れた。ひとつひとつの動作は、わざとやっているとしか思えない。

 その感触や体温に気を取られないように、富士彦は質問に集中した。

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