21 弟を思い出す
雨に包まれる旧家で、空気の流れが
不意に
「ねえねえ、富士彦君?」
下の名前を
反射で肩をすくめた富士彦は、その女声で胸を高鳴らせてしまった。真っ当な高校生なら、ここで
けれど全身を駆け巡ったのは、隠しきれない
「君は
そうして、生暖かくも糖分が混じった吐息が耳に触れた。
「ゲ、ゲームは御免ですよ? あと……ディスタンスが近い」
富士彦は畳の上を滑るように、スマートフォンが置けるくらいの距離を取ると、同じだけ杏が近づいてきた。言葉で迫ってくる杏を、言葉で対処するのは不利、か。
そうかといって、
「ふふっ。その自信に満ちた表情、嫌いじゃあないよ? いつか崩してやりたいな。なんかさ、君を見てると弟を思い出すんだよ」
杏はサディストじみて目を細めると、身内の存在をほのめかした。
弟の存在? ここは聞き流すのが吉だろう。例えば森を歩いていて、目の前に底なし沼が見えてきたら、まともな人間は迂回する。
つまり、そういうことだ。
富士彦は目線を斜め上にずらし、できるだけ顔を逸らした。ふと視界に入ってきたのは、客間の壁に飾られた賞状の数々だった。ざっと数えても十枚は超えており、どれも額に入れられている。
「それにしても、やけに賞状ありますね」
富士彦は一時的な逃げ道を求めて、白々しく話題を逸らすと、杏は目を細めながら、「ふんっ」と鼻息を鳴らした。
「家族代々いただいているからね。なに、条件さえ満たせば誰でも取れる資格さ」
横書きされた文字は、資格を有することを認定する――なんて風に、ありきたりな文章が並んでいる。肝心の資格内容は、『食材管理士』と書かれており、取得の日付は七年前だった。杏が小学五年生の時である。
『満喫町町長
と締めくくられていることから、町が主催する民間資格だろう。
「どういった?」
富士彦は賞状の文字から目線を外し、杏の腕付近で目を泳がせ、追従も世辞も浮かばないまま、率直に尋ねた。
「調理師ってところかな。できれば、この町に居続けて料理の勉強をしたいよ」
「しっかり先のこと考えてるんですね」
「そ……そんなことないさ。私は……」
言い渋るような杏の言葉のあと、富士彦は
進路を決めているであろう、年頃の杏に。
高校三年という若さで、進むべき道を決めなくてはならない現実に。
ただ、リアリティを失いかけていたのだ。
当たり前のように家へ帰る。それなりに趣味に没頭する。
家族と月並みな会話をする。用意してくれた飯を食べる。
富士彦は、アルバイトも恋愛も離別も経験がない、まるで取り柄のない普通の人間であると、劣等感を抱いた。不満がなさすぎる人生に、というべきか。
するとどうだろう。先ほどまで杏に抱いていた
ふたつしか歳が離れていない杏にはフィルターがかかり、どこまでも
愛佳や未来とは異なる、大人の魅力さえ、その幼い容姿から感じていた。
「ねえねえ。私のこと、名前で呼んでくれないかい?」
不意に、
「あ、あっ……杏、さん?」
「悪くないねえ」
もはや富士彦は、無理に切り返そうとはしなかった。呑みこまれても良いとさえ思った。官能的な雨に包まれていたかった。それなのに、
「ん? おやおや、雨やんじゃったねえ」
淡く熱を帯びた旧家の空気は、雨音がぴたりと鳴りやんだことで、なべての平屋に戻ってきた。
「よ、夜まで降るんじゃ?」
「私のてるてる坊主に感謝してほしいね。それより帰るなら今のうちだよ」
彼女の扇動によって、見えない
「また遊びにきてくれる? 新しいゲームも考えておくからさ。お恥ずかしながら遊び相手が欲しいんだ。変なことに付き合わせてゴメンよ」
この人の場合、結果のあとの罰ゲームが楽しくて仕方がないのだろう。けれど今なら、純粋な気持ちで富士彦に接してくれた杏の心持も理解できる。
「それはそうとプチシューの件。実際には退会しないんで、ご心配なく」
「私が負けたのは事実さ。してほしいことがあれば言ってよ?」
「未来さんと仲良くしてください」
「えぇ……四月に言ったことと同じか。君って奴は、憎らしいくらい誠実だね」
終始笑っていた杏だったが、最後に見せたのは困惑だった。
富士彦は残った麦茶を飲み干し、カバンを肩にかけながら玄関へ。杏は素足につっかけを履き、敷居をまたいで、わざわざ手を振ってくれた。
夕影が映え、先ほどとは異なる表情を見せる郊外。湿った空気を吸うと、都心ではまず流れない『カナカナ』というサウンドエフェクトに、心が上手く相乗した。
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