3 ハツを握られている

 なぜ、短身たんしんの上級生に名前を知られているのだろうか?

 愛佳あいかの疑問は疑念に変わり、自然と富士彦ふじひこの目を覗くと、彼も同じように訝しげな目を泳がせていた。

 はぐらかしたり、つぐんだりしても時は動かなそうである。


「それ、わたし……かも?」

「じゃあ、麩谷ふたには……俺かも?」

 ふたりが素性を明かすとすぐ、

「いやあ、偶然だな。まさか君たちだったなんてね」

 小ぶりな上級生は天真てんしんに目を細めた。『偶然』としれっと言いきる態度が、逆に怪しさを打ち消していた。おおっぴらに装飾した聞き込み捜査コンタクトは、悩乱のうらんでしかない。落ち着きを失った愛佳は、先方せんぽうの意向を待つことにした。

「そんなに警戒しないでくれよ。良ければ、光田みつださん? も誘って、今週の土曜、第二調理室に来てくれないかな?」

 聞き取りやすくも、ねっとりとした発声が心身に膠着こうちゃくしてくる。言い終わるくらいに、小脇に挟んでいたクリアファイルから一枚の藁半紙を取り出し、愛佳に差し出してきた。

「あ、どーも」と愛佳。受け取ったそれに目を通すと、翌土曜日の十時、第二調理室で行われる、の説明会について記載されていた。

 標準サイズのフォントで、必要以上の情報は書かれておらず、それ以外は上下左右を、マージンが占領している。

「え? もしかしてコレ」

 不意に、愛佳の頭をよぎったのは採食同好会である。なんの根拠もなしに、これこそが渇望しているユートピアだと妄信した。

「心当たりでもあるのかい? ちなみに私は、の会長をしている安藤杏あんどうあんだよ。あ、これでも三年ね」

 上級生――杏は、下級生を取り回すように、上目遣いで何度目かの笑顔を見せてきた。一方、愛佳と富士彦はたどたどしく一礼を返した。

「けれど、約束してくれるかい? この件は他言無用トップシークレットにするって」

 自分の唇に人差し指を当てるニヒルさは、どこか焦燥しょうそうを与えてくる。主導権を取られる感触は、ハツheartを握られているようで、ひどく居心地が悪かった。

「それは非公式だからですか?」

「んー、ナイショだからかな?」

 愛佳が核心に迫ろうとすると、杏はくすっと口角を上げ、手を振りながら背を向けてしまった。彼女の印象は『静かに降り注いだ土砂降り』だった。

 胡散臭い上級生が立ち去ると、

「どする? わたし、光田さんと面識ないんだが」

 愛佳は茫然ぼうぜんとしながら富士彦に意見を求めた。

「同じく。光田さんってウェーブかけてる子だよね」

「そうそう、黒髪の清楚ギャル」

「言い方……。とにかく、あす正直に話そうか」

 最終的に愛佳は、富士彦と意見を一致させ、日をまたぐことを決めた。


 翌日。帰りのホームルームが終わると、未来はスクールボストンを肩にかけ、そそくさと退室してしまった。愛佳は慌ててリュックを背負うと、そのあとを追い、

「ちょいちょい、光田さん。少し良いかね?」

 生徒の数がまばらな廊下で、ミディアムロングの後姿を呼び止めた。

「ん、鮎川さん? なにか?」

 素直に足を止めてくれた未来が巻き毛をひるがえしながら振り向くと、髪に隠れたピアスがちらりと窺えた。愛佳は思わず、『良い匂いがする』というオッサンのような発言を、こらえようと――

「いいにお――っおほん」

 ぎりぎりで堪えた。

 ブレザーより長いカーディガンの袖からわずかに見える指先には、肌色に近いくすんだ桃色のネイルが光っている。今からしようとしている話題は、『清楚ギャル』のイメージを持った未来には、ひどく切り出しにくかった。

「あのあの、光田さんって同好会とか興味ないかなーって」

 愛佳は、乾いた口内にわずかに残った唾を飲みこみ、本題に入った。

「いや、入るつもりないけど」

「ぐぇ……一言がハードパンチャーだ」

 が、未来は初日に行った自己紹介同様、もなく、退屈そうに薄唇を開くだけだった。彼女が同級生と雑談を行っている姿を一度も見たことがない理由は、この取りつく島もない態度だろう。一拍置いたところで、教室の隅で男子と談笑していた富士彦が、やや遅れて合流し、

「急にごめんね光田さん。実は昨日さあ」

 軽く謝罪を述べ、顛末てんまつを伝えたあと、ショルダーバッグから取り出したA4紙を未来に手渡した。愛佳はふたりに目を配りながら、その反応を待った。

「はあ……こんなドイヒーな呼び出し、キミたち本当に行く気?」

 一分もせずに返ってきたのは凝視、いましめ、あとは少しばかりの呆気あっけだった。

「えっと、内見ないけんだけ。先っちょだけ」

「大体、これ怪しすぎ。同好会の名前すら書いてないペライチって……。投資信託で言うところのゴミ商品、不動産で言うところの不良物件でしょ」

 悪気はないのだろうが、淡々と至当な意見をぶつけられ、愛佳は耐えられずにうつむいてしまった。

「なんかわかんないけど、すごい現実的な子ね」

 学校の領域外アウト・オブ・バウンズへ誘われるかのように、杏の誘いに乗るのは賢明な判断ではないのである。

 いや。初めから未来の言い分は、ある程度は理解していた。

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