49 病床で

 十二月二十五日。

 水槽に浮かんだ金魚と同じ目をしているうちに日付が変わった。

 ついにパーティ当日になってしまい、ふと仮眠から目覚めた愛佳あいかは、自由への道のりを進もうとした。が、手が動かなかった。口なんて余計に動かせず、右手に持った箸を器用に回し続けた。

 白い息だけで会話が可能になれば、咀嚼の音は官能的になり、異性を誘う甘ったるい音色になるのだ。その口に飛びこみ、卑猥な心ごと噛み砕かれてしまいたい。けれど、不純物だらけの人間を丸呑みにした者は腹を壊す。

 まさに究極のSMプレイなのではないだろうか?

 ――ここは本当に現実なのだろうか?


 〇〇時〇〇分。目を開く。

 なぜか皆、床に倒れていた。

 そうか、心身ともに限界だったのだ。

 つまり、限界を迎えるとこうなるのだ。

 そうだ、皆、床に倒れらられられれるのだ。

 心身は、限界を、迎え、皆は、床に、倒れるそうだ。

 同じ文字が、かき回される。


 愛佳はうわ言のように、初めから完全犯罪なんて無理だったとつぶやいた。けれど愛佳にとって、そもそもの目的は人間が短時間でどこまで狂えるかの探究である。つまり目的は達成した。両手にわっぱをかけられる前に、この絶景を目に焼きつけられて大満足なのだ。

 半分だけ開いた目で、高熱でうなされている時のように、頭がぐらぐら――こんこんする。ぐらぐら、こんこん。

 面白い感覚である。床にべったりと密着した耳が、ぐらぐらする頭とは別のオノマトペを、ダイレクトに感じ取っていたのだ。

「……なに」

 はっとした愛佳は、接地していた体を起こし、両手と両膝をついてその方向へ目をやった。唯一の出入口、小さい鉄扉てっぴが、外側からコンコン――と何度もノックされ、室内に焦慮やら恐怖やらを与えてくるのだ。

「……え? え、え?」

 未来みらいの口から発せられるのは、小刻みな疑問ばかりだった。愛佳は富士彦ふじひこと、黙って顔を見合わせた。どうやら、たったひとりの幻聴ではないようだ。

 汗が吹き出てきたあと、それらが一瞬で凍りつく感触を味わった。鳥肌と寒気が全身を覆い隠し、引きつった表情で両眼を見開いてゆく。

 鉄扉の向こうで誰かが呼んでいる。どうか、人ならざる者でありますように――幽霊の存在を、ここまで熱望したのは初めてである。なにせ人間よりも怖い概念なんて存在しないのだから。

 愛佳が数歩下がると、未来も同様の行動を取り、富士彦の後ろに隠れてしまった。深い息を吐きながら前に出てくれた少年だって、相当怖かっただろうに。怯える者を守ろうとする意志は、たとえ虚栄だとしても頼もしい。

「いよいよってこと……?」

 遅れて未来が、シンクの下から牛刀を三本持ってくると、護身用の代わりにと愛佳に手渡してきた。すでに歩みを進めていた富士彦はそれを受け取らず、ゆっくりと鉄扉に近づいてゆく。やむなく愛佳は、左右に一本ずつオールステンレスを握り、高速で鼓動を高鳴らせ、それ以上に高速で口を震えさせた。


「どうぞ。こちらは逃げも隠れもしません」

 富士彦は扉とわずかに距離を取り、腹を括ったように向こう側へ返事をした。ややあって、きぃと錆の混じった開扉かいひ音がし、上半身をかがめながら入室してきたのは、青地のスリムスーツに同系色のベストを合わせた、ひとりの壮年だった。

 脱毛済なのだろう、顔には一切のヒゲがなく、かなり若い印象を受ける。一見するとビジネスマンの風貌で、堂々とした立居だ。

「ど、どちら様でしょう。俺たちを……捕まえにきた人ですか?」

 富士彦の簡潔な質問からは、緊張が伝わってくる。

ではないよ。まずは武器と殺意を下ろしてくれないかな」

「……わかりました」

 男の要求に対し、富士彦は振り返り様、手の動作だけでその意志を伝えてきた。未来とともに、握っていたそれを調理台に置いた愛佳は、スーツの男は存外悪い奴ではないと考えた。

「私は君たちをきた」

 と男は言った。続けて、

麩谷ふたにくん、鮎川あゆかわさん、そして光田みつださんで間違いないね」

 こちらを認知しているであろう口上で、歩を進めてきた。

「あなたは? 敵じゃないと良いんですが……」

「私はただのオジサン――明夫あきおと呼んでくれ。ほら、お互い冷静になって話したいだろう? わかるかな?」

 男が名乗ると、未来も一歩前に出て、

「あたし、この人どっかで会ったことあるかも」

 己の記憶をまさぐるように眉をひそめていた。

「光田さん、か。君はだいぶ雰囲気が変わったね」

「――あっ! こ、この人……まさかあんのお父さん? そうだ、小さい頃に……!」

 未来の震えた声を聞きながら、愛佳の血の気が引いていった。警察よりも恐ろしい人物と顔を合わせてしまい、修羅場しか想像できなくなったからだ。

「はは……あたしら、もう終わりみたい。ここで殺されるのか」

 こうして、直接的に肉親がやってきたということは、すべてがバレてしまったと考えるほうが自然である。

「急に物騒なことを言う子だね。杏が随分と迷惑をかけていたと思うのだが」

「なにそれ? あ、あたしを恨んでるならハッキリ言って! だって杏を……!」

 これ以上、未来が壊れるのを避けたかった。愛佳はなだめるように、また抱きしめるように、その体にしがみついて彼女の暴走をなんとか抑制した。

「ん? もしかすると、見えているものが違うのかもしれないね。むしろ逆、君たちは最期まであの子に付き合ってくれた」

 話がまったく噛み合わなかった。明夫は本当に、同じ世界で生きている人間なのかと疑うほどだった。

「だって、あの子はもう亡くなってしまったのだから」

「そ、そんなの知ってる! 知ってるから……」

 未来は一言一言に押しつぶされそうになりながら、膝から崩れてゆく。愛佳はそれを支えようとして、一緒に床にへたばってしまった。

「知っていたのかい……? あの子は十八歳の誕生日を待たずに、この世を去ってしまった。それでも十一月まで生き抜いてくれたことには感謝したい」

 明夫が言っている意味が理解できず、愛佳も富士彦も未来も口を開かなかった。

 きっと彼の発声が小さくて、聞き取れなかったのだ。みんなそうなのだ。

 だから、無反応こそが正しい反応だったのだ。

「病床に伏してからも懸命に笑っていた。『安っぽいお涙頂戴は勘弁してくれ』というのがあの子の願いだった。だから誰にも告げず、この学校から姿を消した。けれど私はそれが口惜しく、君たちにだけは伝えたいと思った」


 いや、明夫の言い分がおかしかった。なぜなら杏は――

「会長は……先月に、死んでいた? 病床で……?」

 ふらふらと後ずさりしてくる富士彦。愛佳は立ち上がって、その背中を受け止めると、そっと未来の横に座らせてあげた。ふたりが呆然としている代わりに、愛佳はひどく冷静で居られた。ひとりだけパニックに陥るチャンスを逃し、明夫の言葉を受け止めることができたのだ。

 まるで第三者として、この場を俯瞰ふかんしているようだった。

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