15 カステラの紙が綺麗にはがれなかった時

「……個室にこもった罪悪感はすぐに忘れる。吐いたあとの爽快感、太らなくて済むという安心感、パンパンになったお腹からの開放感によって。みぃちゃん、この町には食の神様が居るって言ってたよね? わたしは食って吐いて……人道を外れた行為を続け、挙句は食に対する罪もけろっと忘れ、また食べたい衝動に駆られる。だから食の神から天罰を受けるべきはわたしだよ」

 愛佳あいかには自覚があるようだ。であれば、病気としてはまだ軽度の段階なのではないだろうか。未来みらいは過食症についての知識がなく、耳を傾けるしかできなかった。

 なにより焦慮しょうりょが強かった。


 愛佳の独擅場どくせんじょうは続く。

 不思議なもので、一瀉いっしゃ千里せんりに述べ立てていると、威張れもしない事柄ことがらでも虚栄きょえいを張ろうとするのだ。すると思考は、誤った方向にどんどんれてゆく。

「今はまだ、バカなことしてるって自覚がある。でもいつか、人としての良識を失うかもしんない。いつか、マジでメンヘラ女になるかも」

 愛佳にとっては摂取せっしゅを含め、嘔吐おうともまたアイデンティティを確立させるための手段だったのだろう。相談できる者がおらず、他者の言葉を反芻はんすうさせることもできず、自己じこ省察せいさつもままならなかったはずだ。

「さっきの食べ放題、みぃちゃんの手前だから欲求を抑えてた。でも結局は欲望に負けちったよ。ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」

「違う、謝るのはあたしだ。ロクな言葉もかけてあげられない……」

 シニカルな空笑そらわらいと、一方的な謝罪を受け、未来は自己嫌悪の末に謝り返してしまった。こういう時、愛佳と最も付き合いの長い友人だったら、どのような方向から声をかけるのだろうか? 愛佳には、そういう知人が存在するのだろうか?

 推し量るだけで無性に悔しくなり、過食の抑止力になれない落胆へ行き着いてしまう。それはもう、カステラの紙が綺麗にはがれなかった時のもどかしさに似ていた。


 未来はしばらく自然に身を任せていた。風が一瞬やみ、わざとらしくデジタルの文字盤に目をやると、つばを飲みこみながら愛佳の冷たい手首を握った。

「あたしに過食症の知識はない。なんだろう、でも歯が溶けるとか、精神が不安定になるとか、そのくらいならわかる。それで、さ……」

 未来は、そのボロボロであろう心を和らげたかった。小難しい心組みはなく、むずむずした口が見切り発車していたのだ。面食らったように愛佳が、「え?」と、肉声を漏らした。

「も、もちろん、あたしには治せない。治療の強要もできない。でもさ、また一緒に美味しい物を食うことならできる……と思わない? ほら、富士彦ふじひこも強引に引っ張ってきてさ、うち来なよ。なんかご馳走するから。なんて、ね……」

 文字と文字が合わさり、単語は出来上がっていた。けれど、単語と単語を上手に合わせられず、文章がてんで組み立てられなかった。インターネットで仕入れた情報を絡めるが、もつれた舌では限界があった。

 クールを装うつもりが、終始へどもどしてしまった。

 未来は凡百ぼんぴゃくという自覚がある。だのに愛佳と富士彦は、

『みぃちゃんは普通の子と雰囲気が違う』

『未来さんは異彩を放ってる』

 などと、一挙一動を取り立ててくる。彼らに悪気はない。だからこそ、ただの一言にすらプレッシャーを覚える日もあった。

 霊感の話題を出した四月だって、適度なツッコミを期待していたのに、愛佳と富士彦は真っ向から食いつき、それを受け入れてくれた。

 困った友人たちである。――だからこそ友達になれたのかもしれない。

「いつかは若い頃の是非を問える。だから今はあたしにも、多分あんたにもわからないよ。でも、愛佳がしたいことなら全力で協力したい!」

 久々に声を張り上げた気がする。

 いや、先ほど愛佳がトイレで吐いていた時も、数ヶ月前も大声を出した。

 高校に入学してから、やけに感情を表すようになった。未来は小中学校時代を思い出しながら、愛佳の腕を離し、改めて横顔に目をやった。

 こんなことで愛佳を嫌いになりたくなかった。

 当人にとっては大問題の過食症を『こんなこと』と口走るのは軽率だが、未来にとっての『こんなこと』で友人を失うのが怖かったのだ。

「うん、行く……。こんな変な奴で良ければ、いつでもみぃちゃん家に行くし、お泊りもするよ」

 すると愛佳が、ようやく普段の調子で笑ってくれた。

「泊まり……あっ、あたし寝起き悪いから朝の姿だけはNGだな」

 一瞬――ほんの一瞬、肩の荷が下りた気がした。

 未来の全身は脱力し、硬い背もたれに上半身を預けた。目線の先には、むかつくほど綺麗な空があり、しばらく会話の仕方をド忘れした。出会いの春に戻ったかのように、どぎまぎしながら。


 そのうち足下あしもと夕風ゆうかぜを感じ、マンションへ帰る近隣住民に感化され、

「そろそろ帰ろ?」

 未来はすっと立ち上がり、空を見上げていた愛佳に手を差し出した。細くて柔らかい指が絡みつくと、勢いに任せて軽すぎる体を引っ張った。

「みぃちゃん……サンキュー。じゃあ、またあしたね」

「うん。気をつけて」

 愛佳と別れた未来は、口を『へ』の字に曲げて困りきっていた。

 このまま採食同好会に通い続けて良いものか否か、である。

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