長野編 3-4
「――呼び名ないと不便ですね。メガネかけてるからメガネさんでいいですか?」
何とでも好きに呼んだらいい、と私は答えた。
少女はコロコロと笑いながら他愛もない話をしてくる。私は短く相槌を打つだけだが、それを気にする様子もなかった。
「あたし、とある人にこの場所を聞いてずっと探していたんです。その間色んな場所をフラフラフラフラ漂って……ちょっと時間かかったけど、どうにかたどり着けました」
少女は晴天の空に顔を向けた。
「マヨイガ、っていうんですよね。ここ」
「……ああ」
不思議と覚えていた。自分の名前すら忘却の彼方だというのに。
「メガネさんは、どうやってここに来たんですか?」
「――確か、山の中を歩いていた」
今となっては遥か昔、ここに来る前、最後に残っていた記憶を思い返す。
「暗い夜の山の中で……私はひどく絶望していた。自分が目指していたモノになれないと知って、すべてを捨てたくなった……そうして気づいたら、ここに来ていた」
「そっか」
頷き、少女は首をこちらに向けた。
「あたしもです。背負っているもの全部、捨てたかった。ここに来たのは興味本位だけど」
私はしげしげと少女を見つめる。
まだ十を数えるくらいの年齢。そんな少女が、そこまで世界に飽くことがあるものだろうか。
「まあ色々とね」
おどけたように、少女はませた口調で言った。
「あたし、産まれがちょっと特殊なんです。母親はいたけど、一緒に乗ってた車が事故に遭って死んじゃった。でも、あたしには莫大な遺産の相続権があって、それを巡って親類たちがてんやわんや」
やれやれ、と両掌を天に向け、少女は大きくため息をつく。
「ま、気持ちはわからなくもないケド。でも当事者としてはうんざりですよ。デリカシーがないっていうか、人間の嫌なところをまざまざと見せつけられた感じ。……それであたしのことを、だーれも知らない場所に行きたくなった」
掌を合掌し、少女はなむーとつぶやいた。
「帰ろうと思えば帰れるんだけど、戻ったところでねぇ」
苦笑してまた空を仰ぐ。相変わらず気持ちのいい天気だ。
「本当の意味であたしを待っている人は、あの世界にはもういないから。だったら、もう戻らなくてもいいかな、って」
少女の表情はさばさばとしていた。絡みついていたものから解放されて、清々したという風情だ。
現生にいれば望まずとも生まれてしまうしがらみや繋がり。それを自ら願って断てたというなら、こんなに幸いなことはない。
そう考えて――しかし、何かが引っかかった。
少女の晴れ晴れとした横顔。本当に楽になったのだと思う。
――なのに、何かが違う。何かがズレている。そういう強烈な違和感が、胸の内で騒いでいる。
「あ~……ホントのんびりしますねぇ、ここ」
伸びをして言う少女に目をやりながら、私は久しく忘れていた、気持ちの揺らぎに戸惑っていた。
※
目を醒ました場所は屋内だった。自室として使っている、六畳ばかりの殺風景な和室だ。
「――大丈夫?」
蒲団に寝かされていた。毛布を少し下げ、声がした方に首を動かす。
「……玲実」
すぐ横に正座していたのは、自分が預かり受けた姉妹の姉だった。
「頭を蹴って倒れたって、犀川は言ってたけど」
口の中に血の味は残るが、顎に違和感はなく歯も折れていない。脳を揺らされ意識が飛ばされただけだ。
「問題ない。……ここには、あの小僧が?」
「うん、犀川が運んでくれた」
頷き、玲実は微笑んだ。
「夢瑠は?」
「自分の部屋。泣き疲れて眠ってるよ」
「そうか」
室伏は短く目を閉じ、玲実を見た。
表情は落ち着いている。彼女たちの決着もついたのだろう。恐らく、望ましい形で。
「祓えたんだな」
「うん……ウチ、やっと夢瑠と向き合えたよ」
玲実の口調は穏やかだった。夢瑠と本音で話し、彼女自身に〝憑いて〟いた何か
も落とせたのかもしれない。そんなことを室伏は思う。
――らしくもない。胸中で苦笑し、室伏は上体を起こした。
「ちょっと、まだ起きちゃ……」
心配そうな玲実の言葉に首を振り、室伏は毛布を剥いだ。
「お前らがわかりあえたのなら、俺の役目ももう終わりだろう。――出て行くよ。頼子との約束も、俺の野暮用もケリがついた」
「……そっか」
玲実は声を落としたが、止めようとはしなかった。
「犀川は海江田と一緒に山へ行ったよ。御堂を迎えにね」
「いいヤツらと友人になれたな。少しばかり、個性が強すぎるのが難だが」
苦笑し、それから玲実は真っ直ぐに室伏を見上げた。
「うん。……あんたはどうだった? 実の息子と再会して」
立ち上がりかけたところで、室伏は動きを止めて口を一文字に結んだ。
「……見えていたのか?」
「うっすらと。ごめん、覗くつもりはなかったんだ。――でも室伏を〝見た〟時、見えるイメージはいつも一緒だったから。男の子の姿……その子の目は、ウチが出会った時も変わっていなかった」
少し言い辛そうに玲実は告げた。過去を盗み見たことに負い目を感じているのかもしれない。
室伏は口元を歪めた。
「……そうだな」
改めて立ち上り、ハンガーにかけてあるスーツの背広に袖を通す。この村で得たものでこれだけは持っていくことにする。頼子からもらった一張羅だ。
「少し、昔の話をしてもいいか?」
玲実に背を向け、室伏は言った。
「どうぞ。ウチでよかったら」
その返事に、いくらか慰められた気がした。
二度と口にすることはないと思っていた。それは捨てた過去だった。
でも、人は生きている限り捨てられないのかもしれない。過去が自分を見つけにくることもある。
「――東京にいた頃、俺は昔気質な暴力団の家に産まれ、跡目を継ぐことを期待されていた」
玲実の顔を見ないまま、室伏は語り始めた。
「それほど大きくはないが代々続いてきた組で、組長の血縁者が後継となるのが伝統だった。……しかし近年、外様の中にも組内で力を持つ連中が出てきて、そういった連中に実権を握らせないため、俺は利益を上げる新たなシノギを作り、血ではなく、自らの力で立場を示す必要があった」
喋りながら、室伏は背広のボタンを留める。
「友人の伝手を経て、マネーロンダリング――資金洗浄した裏金を元手に海外投資に手を出して、時流の運もあり成功した。かなり強引なやり口だったが、自分が生き抜くために必死だったし、ミスをすれば周りの連中は俺を殺すことにも躊躇いはなかった。……軌道に乗った投資が莫大な利益を生み対立する連中を黙らせると、俺が次の頭になることに、反対するヤツはいなくなった」
声を落として、室伏は一度言葉を止めた。
「――力で立場を勝ちとった自信で、その時の俺に恐いものはなかった。外へ出ては遊び歩き、家に戻ると、きまって妻に暴力を振るった」
それが快感だった。我が身の力で相手を屈服させる悦び。組内の権力闘争で相手を地べたに這いずらせた時も、事業で競合した相手を暴力行為で痛めつけた時も。
勝つことよりも、ただ相手が嘆き苦しむ姿を、俺は楽しんでいたのかもしれない。
「殴った妻が泣いて叫ぶと、止めようとするガキが俺に向かってきた。だから、俺はあいつも殴り飛ばした。何度も何度もな」
目を瞑れば脳裏に浮かぶ。自分と、かつての妻の間で立ち塞がる小さな姿。
「……でもな、あのガキは決して泣かなかった。口を腫らして血反吐を吐いても、やけに澄んだ目で俺を見上げてきやがる。それが気に食わなくて、見るのが不愉快で、暗がりの中に何日間も閉じ込めた」
背中に玲実の視線を感じる。振り向かないまま、室伏は続ける。
「今はわかる。俺はあいつの目が怖かったんだ。あの澄んだ目で見られると、自分の内心を見透かされそうで怯えていたんだ。あの頃、俺は自分が強くなった、でかくなった気でいた。自分を飾り立てる立場と周りの態度が、俺の価値を表していると信じていた。……だけど違った。本当の俺には何もなかった。再投資した資金の大半を任せていた友人にだまし取られ、治まっていた立場から墜とされ、味方だったヤツらが敵に変わって――ようやくそれに気づいた。資金面で落ち込んだ組は外部の組織に吸収されて、俺は責任を追及されつけ狙われる羽目になり、這う這うの体で長野まで逃げてきたのさ」
「……それで、お祖母ちゃんに拾われたの?」
振り向いて、室伏は玲実を見た。
「そうだ。一度は死んだ身だったからな。助けられた以上、残りの人生は頼子のために使おうと思った。お前らの世話をしたのもそれが理由だ」
俯いていた顔を上げ、玲実は室伏を見た。
軽蔑や嫌悪が浮かんでいるであろうと予想した表情は、ただ真剣な眼差しを自分に向けていた。
「夢瑠はあんたのことを父親みたいに思っているよ。ウチも感謝してる。……あんたが昔、何をやっていようと」
笑おうと思ったが、顔の筋肉はいうことを聞いてくれなかった。
室伏は首を横に振る。
「……俺は人の親にはなれん。一度、家族を捨てた人間だ」
言って、襖に手を掛ける。
「玲実。夢瑠を連れて東京に戻るなら秋吉を頼るといい。融通は利かないだろうが、俺よりはマシだ」
「……室伏」
仮初の名を呼ばれ、室伏はもう一度、玲実に顔を向けた。
「今までありがとう。ウチのことも、夢瑠のことも」
礼を告げて、玲実は表情を緩めた。
「――じゃあな」
目を眇めて言うと、室伏は襖を閉めた。
歩き慣れた廊下を進み玄関から外へ出る。空はよく晴れ、満天の星が広がっていた。
室伏は前だけを見て歩いて行く。
一度もうしろは振り返らなかった。
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