3-5


「魔界へのいざないロックでーす」

「俺だ」


 運ばれてきたグラスを犀川は一息で空にした。

 唖然とする店員に、同じものを、と告げて返す。


「――俺の両親は、俺が幼い頃に離婚していてな」


 熱っぽい息を吐くと、犀川は淡々と語り始めた。


「父親が暴力グセのある男で、酒が入るとことあるごとに母を殴った。止めに入った俺も殴られ、仕置きとして二日三日、押入れに閉じ込められた」


 穏やかでない内容に対して抑揚のない口調。

 犀川の顔は無表情だった。


「そういう時、父親が出かけた隙に母は俺を助けてくれた。食事も取らず、糞尿を垂れ流し衰弱していた俺を抱きしめ、泣きながら謝った。〝今度こそ別れる〟と言って」


 俯きがちに、犀川はテーブルの上を見つめている。

 シラフで聞くことに堪えられなくなり、僕はビールを空けて、店員に犀川と同じ焼酎を注文した。


「それで――秋吉くんのお母さんは、いつ父親と別れたの?」


 海江田の追及には容赦がなかった。興味を隠そうともせず、平然と訊く。


「別居、同居を繰り返して……正式に籍を抜いたのが俺が九歳の時だ。母が俺の親権を得て、俺が中学の頃にパート先の人と再婚した」

「その人が秋吉くんの新しいお父さんになったわけだ」

「まあ、そうなるな」

「ふーん」


 海江田は腕を組み、天井を見上げてしばし黙りこんだ。

 ――そして、再び犀川に目を戻し、


「つまり、秋吉くんにはお父さんが二人いるんだ?」


 と、ニヤリと笑って問いかけた。

 途端、犀川の目が海江田を射抜く。突き刺すような鋭い視線。海江田は微笑で受け止める。


「俺は、前の父親を父と思ったことはない」

「そうなんだ。そりゃ普通そうだよね」


 唸るように言った犀川に、海江田はこともなげにつぶやいた。


「――で、その小さい時の経験がトラウマになって、暗いところが怖くなったんだ?」


 何故煽るような口調で言う。こいつにはデリカシーってもんがないのか。


「おい、海江田……もうちょい言い方ってもんが……」

「いいから。秋吉くんから始めた話なんだし、これくらいのことは訊いてもいいでしょ」


 口を挟みかけた僕に言うと、海江田は挑むような目つきで犀川を見据えた。


「お待たせしましたー。魔界へのいざないです」


 店員が、ロックの焼酎を二つ持ってくる。

 犀川は一つを僕の前へ移動させた。


「あ、ありがとう……」


 礼を言い終わる前に、犀川は自分のグラスを干していた。


「同じものを」


「いい呑みっぷりだねぇ、でもペース早くない?」

「その通りだ」


 海江田の煽りにも動揺を見せず、犀川は肯定した。


「俺が始めた話だ。君らにも訊く権利はある。……海江田、君が言う通り前の父親の折檻が原因で、俺は狭い場所での暗闇に過剰な恐怖を抱くようになった」

「折檻というより虐待だよね、それは。秋吉くんのお母さんは児童相談所とかに通報しなかったのかな?」

「父親が監視していたからな。母はヤツに縛られ、自由はなかった」


 犀川の、言葉の温度が落ちてゆく。

 表面上は変らなくても、内心で静かな怒りがふつふつと燃えているのが感じ取れる。

 何でこうも続けて挑発するようなことを言うのだ、こいつは……。

 そういう性格なのはわかっているが、今日は特にブレーキが利いていない。


「母に責任はない。俺が暗闇に恐怖を抱くのは、あの男の身勝手さと俺の弱さが原因だ」


 海江田が何か言う前に犀川は続けた。

 母親に非難が向くのは許さない、という思いが言外に窺える。


「そっか。ま、それならそれでいいんだけどね。――それでゴムマスクを着けた圧迫感で、その恐怖がよみがえったってこと?」


 話題を戻し、海江田は訊く。


「そういうことになる。……嫌な感じはしたが、まさか気絶するとは思わなかった。情けない話だがな」

「茜ちんに何でそう話さなかったの? そっちの理由を言えば、笑い話にはならなかったと思うけど」

「――だからだよ。身の上の重い話をして彼女に嫌われたくはなかったし、そんな弱さを隠し持っていることを、他の連中に知られたくなかった」


 自嘲めいた表情の犀川を見て、ああそうか、と僕は納得した。

 酒の席でこんな話を聞いて盛り上がることはできまい。少なからず常識というものを弁えていれば、人として、ネタにしていい話題とそうでない話題はわかる。

 だがしかし、空手部で、上級生をも凌ぐ実力を持つ犀川にそんな弱味があるとわかれば、彼に妬みや僻みを抱える者たちは、暗い優越感を持つかもしれない。それは表立って語られなくても、陰湿なプレッシャーとなって犀川を苦しめるだろう。

 野美さんや海江田が空手部の部員から聞いた話じゃ、必ずしも犀川の立場は良いとは言えないようだし。

 それならむしろ――〝幽霊妖怪関係に怖がりだ〟の方が笑い話にもなるし、からかわれても弱みを握られるよりはマシだと犀川は思ったのだろう。


 ……なるほど。合点がいった。


 この話を最初聞いた時から違和感はあった。

 犀川は、例え本当に怖がりな面があったとしてもそれを認めるイメージだ。しかし野美さんは彼が最初否定したと言っていた。それは本当に原因が違ったからなのだろう。

 ――だが、そのあとに犀川は自分が好意を持つ野美さんに迫られ、実は幽霊妖怪関係に怖がりだ、と認めた。

 苦し紛れにそのストーリーを作り出すことで、気まずくならないように努めたのだ。そういう配慮の具合は、僕が知る犀川秋吉という男のイメージだ。


「……何で、僕らには話したんだ?」


 ロックを一口呑み、僕はその度数の強さに舌を痺れさせながら訊ねた。

 ふう、と息を吐き、犀川は口元を微かに歪める。


「あんな手の込んだことをしてまで俺を勧誘しようとしたんだ。気絶の理由くらい聞きたいだろう? ……それにそっちがそういう気なら、多少重い気分にさせてやるのも悪くないと思った」


 つまり、犀川なりのシニカルなユーモアか。

 彼の笑みには自嘲と皮肉が入り混じっていた。


「今さらだがすまなかったな、御堂。つい脚が出てしまった」

「いや、それは僕らが悪かったわけだし……」


 頭を下げた犀川に、僕は慌てて手を振った。

 謝られることではない。謝らなければならない真似をしたのは、むしろ僕らの方だ。


「いやいや――もし悪いと思ってんならさぁ、いい責任の取り方があるよ?」


 その僕の横から、そもそもの言い出しっぺで欠片も反省の気のないヤツが口を開く。


「……おい、海江田?」

「何しろ婿入り前の要っちをキズ物にしたんだから、それなりの責任を取ってもらわないと」

 

 何だ、その言い方……。


「いや、それ言うなら君だって最初僕に飛び蹴り食らわせただろ。しかも悪意を持って」

「しゃらっぷっ! ともかくっ!!」


 バンッ! と空にした焼酎のグラスを机に叩き置き、海江田は人差し指を立てて、犀川に迫った。


「前にも言ったけどもう一度言うよ。――犀川秋吉くん、マヨイガ探索隊に入りなよっ!!」

「嬉しい申し出だが、空手部と学生会に加えて三つの草履を履けるほど俺は器用じゃないからな」


 前にも聞いた返事だ。――しかし、今度の海江田はここで引き下がらなかった。


「ならさ、ユー空手部、辞めちゃいなよっ?」


 ……何言ってんだ、こいつ?


 胡散臭い仕草と口調で、海江田はそんな無茶を言い出した。

 犀川は呆気に取られたように目を丸くしている。


「どーも茜ちんや部員の人の話を聞いてるとさぁ、秋吉くん、あんまり部活が楽しそうに思えないんだよねぇ」

「いや……そんなことは……」

「いーやっ、楽しさよりも使命感でやってる感じ。ストイック過ぎる感がバリバリ漂ってるもんっ」


 立てた人差し指を突きつけられ、犀川は黙った。

 まあ、海江田の理屈を支持するわけじゃないが――さっきの話からも、犀川は部内の人間関係で面倒な立場にいるようだ。それは彼の生真面目な性格に寄る部分もあるかもしれない。犀川が悪いわけじゃないが。


「そりゃ秋吉くんが、心から自分で望んでやってんなら口は出せないけどさ。自分の本心も言えないで、周りに気ぃ使ってやってるような部活が、君の心のサンクチュアリになれるとあたしには思えないのさ」


 いや、どうあれお前は自分の気が向けば干渉してくるタイプだろ。

 良きにつけ悪しきにつけ、他人がどう思っていようと目的のために口を挟んでいく。そうやって強引に割り込み、気づけば自分のペースにしてしまうのがこの女だ。

 内心ツッコむ僕の横で、海江田は話し続ける。


「――だからねっ、そんなストイックな君にはっ、もぉぉっと肩の力を抜いて、楽しめる場所が必要だと思うのよっ。そういう意味で、うちのサークルはおすすめだよぉ~。何せ少数人数だし、言いたいこと言えるしっ!」

「今は君と僕だけで、君が思ったことをすぐ口に出すだけどな」

「ほら、要っちもヘーキでこんな生な口叩くっ!」


 僕のボヤキも利用し、海江田は軽快なトークで捲し立てる。本領発揮だ。


「本当に空手部は秋吉くんの居場所なの? そりゃ空手は君のライフワークなのかもしれないけど、部にいるのは、そこで自分が務める役割の使命感や、好きな人に縛られてるからじゃないの?」

「……いや、俺は」


 突然トーンを抑えた真剣な声で訊かれ、犀川は返事に窮する。

 ここぞとばかりに海江田は身を乗り出した。


「秋吉くん、道場にも通ってるんでしょ? じゃあ空手はそっちでやればいいじゃんっ! 学生の本道、勉学と青春は我がマヨイガ探索隊で堪能しようよっ!!」


 言い淀む犀川に告げて、海江田はまじまじと彼の顔を見つめた。


「……まいったな……」


 頭をかき視線を泳がすと、犀川は店員が運んできた焼酎のグラスを見つけ、口をつけた。


「俺が、楽しくなさそうに見えたか……」

「わかんないけどね。でも、今日話してみてあらためて思ったよ。――秋吉くん、しんどそうだなって。イロイロ抱え込んで、それを吐き出す場所を探してるんじゃないかって」

「君と話していると、自分で気づいていない気持ちを読まれている気分になってくるな……」


 犀川は、観念したように苦笑した。


「わかった、少し考えさせてくれ」

「――っ! いいのか、犀川?」


 つい声を上げた僕に目を移し、犀川は頷いた。


「ああ。――確かに、俺には少し気を抜く場所が必要なのかもしれない。自分のことや、周りのことを見つめるためにな」


 その言葉の指している意味が僕には捉えきれなかったが、犀川は、海江田の指摘に思うところがあるようだった。


「よーしっ! そんじゃあ秋吉くんの入会(仮)記念を祝して、再度乾杯といこうかっ!!」

「いや、まだ入るとは決めてないぞ」

「いいからいいから! ほら要っちもっ!!」


 強引に握らせ、海江田は自分のグラスを掲げた。


「ほれ、かんぱーいっ!」


 かち合わせたグラスに口をつける。

 ……やはりロックは強い。僕は水割りの方が好みだ。

 ちらり、と向かいを見ると、犀川は味わうようにゆっくりとグラスを傾けていた。

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