長野編 2-2
「や~圧勝だったねぇ~」
田畑の間に作られた稲村亭へと通ずるあぜ道。そこを闊歩しながら、先頭を行く海江田は暢気な口調で言った。
「浜吉さん一勝もできなかったし。力の差は大人と子供、って感じ?」
「久しぶりの対人稽古で少しばかり気負ったな。熱が入って、程よく手を抜くことを忘れていた」
表情に運動後の清々しさを浮かべながら、犀川は悪意なく、しかし結構ヒドイことを述べる。
まあ確かに、村の男衆が見てる前であそこまで徹底的に負かすのは容赦ないと思った。浜吉さん、村の若者のリーダー的な立場みたいだし。
対戦後、土俵の真中で胡坐をかいて俯いた彼に、皆恐る恐る声をかけていたが浜吉さんは反応しなかった。よほどプライドを傷つけられたのだろう。
「彼も腰の重さや膂力は中々のものだったぞ。それを生かすだけの、技が身に付いていないのが惜しいな。あの体格と体力で当たれば大抵の相手は押し切れるだろう。だが、いかんせん攻めは力任せで単調だ。もう少し動きを意識した稽古をつければ、いい勝負になると思う」
「はぁ~レベルが違うって感じだねぇ~」
惚れ惚れしたように海江田が言う。僕も同じ気持ちだ。
やっぱり、空手部辞めたのはもったいなかったんじゃなかろうか。日本武道界の将来の有望株として。
「犀川は、今も空手の稽古は続けてるんだよな。大会とかは出ないのか?」
「道場には通っているよ。学生の間は試合にも出るつもりだ」
犀川が答えた。
去年は全日本大会でベスト8だったか……今年はどこまでいくのだろうか。
「大会ある時は言ってねっ! マヨイガ探索隊総出で応援しに行くからっ!!」
にんまり笑って海江田が口を挟む。
「それって、キミと僕だけじゃないのか?」
「何言ってんの。レイミーもだよ」
窘めるような顔を僕に向け、言い切る。
「……あらためて訊くけどさ、海江田。君、実里沢を連れて帰るつもりなのか?」
「トーゼン。話をするためだけに、はるばるこんな遠くまで来たワケじゃないよ。レイミーも、どうやらここにいるのは本意じゃないみたいだしね」
見透かしたようなことを言って、海江田は前を向く。その背を見つめ、僕は実里沢が彼女を見鬼で見た時のことを思い出した。
それまでの相談者に対する見鬼とは明らかに様子が違っていた。結局、実里沢は自分が見たものを語ろうとはしなかったのだ。海江田はそれに納得しているようでもあった。
……触れないでいたが、やはり気になる。
「――なあ。実里沢は、あの時君に何を見たんだ?」
「あの時って?」
「見鬼で君を見た時だよ。わかってるだろ」
すっとぼけたように言って歩みを進める海江田に、少し語気を強くし、僕は重ねて訊ねる。
「君を〝見た〟実里沢の反応はそれまでと違っていた。夢瑠に語らせず、見たものを言おうともしなかった。……君には、その理由がわかっていたんじゃないのか?」
歩調を変えず、すいすいと実里沢は前を行く。続く僕、犀川は彼女のうしろ姿に目を向ける。
「――ん。それはさ、あたしがマヨイガに行った時のビジョンだろうね」
少し間を空けたが、海江田はあっさりと言った。
「そこで得た記憶、経験……もしかしたら、あたしが忘れていることもレイミーは見たかもしれない」
「それは、君が今もマヨイガに行くことに捉われているからか?」
「そうだろうね。もう一度あの場所に行きたいっていう気持ち……それが今のあたしの行動原理だから」
少し迷うが、ここは言うべき場面だろう。僕は腹を決めた。
「君もマヨイガについて調べたんなら知ってるだろう。〝マヨイガは、一度訪れた者は二度と辿り着くことができない〟」
海江田が立ち止った。
気がつくと陽はもう落ちかけていた。田畑の向こう、山の間から夕日に向かって飛ぶカラスの群れが見える。
「それがわかってて、君はまだマヨイガを目指すのか?」
ずっと引っかかっていた疑問。情報通の海江田ならこの程度のことはとっくに知っているハズだ。なのに、海江田はそのことを気にしているようではなかった。
……或いは、気にしないようにしていた、のか。
「うん、そーだよ」
海江田の声は明るかった。こちらを振り向き笑顔を見せる。
「じゃあ、何で……」
「無駄なことをするのかって?」
視線を切って歩き出す。僕らも続く。
「確かにね、無駄かもしれない。一度そこを訪れたら二度と辿り着けないって、柳田国男も佐々木喜善も書いている」
言葉を止め、海江田は顔を夕日の方へ向けた。
「――それでもね、あたしはどうしても、もう一度あの場所に行かなきゃならない。それは理屈じゃなくて本能なんだよ。あの場所を訪れて、会わないといけない人がいる。話さなくちゃならないことがある」
海江田の声は弾んでいた。
それは初めて僕の家に来た日、マヨイガのことを語った時のように。
「そのためにならあたしは何だってする。手段も選ばない。今あたしがここにいる理由は、それだけだから」
海江田は言い切った。話した内容の割に口調に重さはない。しかしその朗らかさが、逆に彼女の決意の強さを表していた。
その見えざる迫力に押され、僕と犀川は黙り込む。
「もちろん、要っちや秋吉くんにも力の限り協力してもらうから。そのつもりで」
横顔をこちらに向けて、海江田はにっ、といたずらっぽく笑う。表情は夕日で紅く染まっていた。
「……まあ、できる限りは協力するけど」
「……そうだな。やれることはやろう」
「しまらない返事だなぁ~」
不満げに唇を尖らせたが、すぐに僕らから目を切り、海江田はびしっ! と人差し指を道の先へ向けた。
「ま、いいや。埃っぽかったし、さっさと戻ってお風呂入ろう。――それから秋吉くんの勝利を祝って宴会だっ!」
「だから、お前が呑みたいだけだろ……」
お決まりのように僕がツッコむと、犀川は苦笑を浮かべていた。
※
稲村亭の浴場は宿泊施設としてそれほど広くはない。せいぜい一度に三人が入れる程度だが、この村を訪れ泊まる客の人数を考えるとそれで十分なのだろう。
湯は無臭透明の単純温泉だそうで、疲労回復や美肌に効果があるという。
「お待たせー」
白地に紺の線が入った浴衣を着て、海江田が部屋に戻ってきた。湯上りらしく顔はほのかに赤みがさしている。
「いい湯だったわぁ~。コーヒー牛乳でも飲みたいトコだけど、もうすぐご飯だからビールまで我慢だねぇ」
にしし、と笑って手に持つペットボトルに少し口をつける。中身は浴場更衣室前の台に置いてある無料の天然水だ。
「じゃあ僕らも行くか」
「ああ」
犀川を促して、下着とタオルの入ったビニールポーチを手に立ち上がる。「ごゆっくり~」と言いつつ、窓を開けて仰向けに寝そべる海江田に見送られながら、部屋を出ようとした。
「――あ、要っち。そういえば女将さんがちょっと用事あるから、お風呂入る前に来てほしいって」
「え、僕に?」
「そ。力仕事頼むんなら秋吉くんの方がいいですよーって言ったんだけど、そうじゃないって。ま、それなら浜吉さんにやらせるかぁ」
海江田は目を細め、含みのある笑みを浮かべた。
「要っち、案外熟女キラーなのかもよ?」
「アホなことを言うな」
呆れ声でつぶやき、僕は犀川に「先に行っててくれ」と告げて、食堂の方へ向かった。
「――来たか」
「え……あなたは」
食堂、四人席の一つに座り待っていたのはあの室伏という男だった。
似合ってはいるが、この村には馴染まない黒スーツ。僕へ向けた表情にはカタギ離れした凄みが漂っている。
「少しいいか。君に用事がある」
「あ……はい」
その威圧してくる雰囲気で言われれば断れるはずもない。
僕がお辞儀人形のように頷くと、室伏は席を立ち、食堂入り口の引き戸へ向かった。
あとを追い、僕は共用のつっかけを履いて外へ出る。
……ってか、何の用だ? この男が僕に……。
まさか――今まで海江田や犀川が夢瑠や浜吉さんたちにしたことのケジメとして、僕にヤキを入れるつもりなんじゃあ。一番反抗しなさそうだと思われて。
確か、中学の頃にもこんなことがあった。クラスメイトの不良連中が学校でイキっていたら、それを気に食わないとする先輩たちが何故か僕を呼び出し、脅し交じりの警告をしてきた。
んなこと僕に言われても知ったこっちゃない。文句あるなら当事者同士で話し合えよ。僕は何もしてない。だいたい、その不良連中とも友人ですらないんだぞ――などと憤ったが、それでも黙っていたらその先輩たちに何をされるかわからなかったので不良連中に言われたことを伝言したら、うるせー殺すぞと殴られた。あまりに理不尽な出来事だった……。
あの時のほろ苦い経験を、僕は二十歳になっても味わうのか? こんな名前も知らないようなド田舎の村で。あの時の先輩や不良以上にタチ悪そうな、このいかつい男から。
歩きながら、泣きそうになるのを堪えて頭の中だけでブツブツ文句を言っていると、稲村亭の裏手に回ったところで室伏は立ち止り、僕の方を振り向いた。
……ここで、僕は殴られるのかっ!?
咄嗟に身構えたものの、室伏は手を出すことなく、ただその巨体をゆっくりと右に移動させた。
彼が退いたあと、林と稲村亭の間に表れた小柄な人影。屋内から射す僅かな明かりが夜の闇にその姿が浮かび上がらせる。
「――実里沢?」
暗がりから姿を見せた実里沢玲実は、猫のような瞳で僕をじっと見つめた。
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