長野編 2-1

 一度稲村亭に戻って昼食を摂り、それから僕らは浜吉さんに連れられて、稽古場として使っているという広場に向かった。

 段々差が多く畑ばかりが目につくこの村ではめずらしい、平地で開けた場所。人の手はあまり入っていないらしく、地面に短い雑草が茂り木々に囲まれる景観は、さながら天然の自然公園といった趣だ。

 広場にはすでに十人ほどの男衆が集まっていた。浜吉さんと同年代で、皆ランニングシャツや生地の柔らかそうなズボンといった動きやすい格好をしている。胴には回し代わりなのか、紺や赤の太い帯を巻き付けていた。

 近づいていった浜吉さんには頭を下げるが、男衆が僕らへ向ける視線は友好的とは言い難い。当然ながら彼らも、集会での僕ら――というか、海江田が起こした悶着を快く思っていないのだろう。


「……大丈夫かな、これ。稽古と称した集団リンチとかされない?」


 男衆と浜吉さんが話す位置から少し離れたところで、不安に押された僕は海江田に囁いた。


「かわいがりってヤツ? ま、いざとなったら秋吉くんは自力で抵抗できそうだし、あたしは脚速いから大丈夫だよ」


 あっけらかんと海江田は言う。そして真顔で僕を見て、


「要っちは頑張って!」

「それ何も大丈夫じゃないってことだろっ!?」


 焦って言う僕に、ふふーん、と海江田は何やら意味深な笑みを向ける。


「まーそこはケツでも差し出して許してもらうってことで。みんなガタイいいし、要っちみたいなヒョロガリは案外気に入られるかもしれないよ?」

「ロクでもない想像を言うなっ!!」


 冗談ではない。僕は顔を青くし、チラチラとこちらを窺うように見てくる男衆から目を逸らした。


「――よし」


 そんなアホなことをやっている僕らの横では、稲村亭でジャージに着替えた犀川が屈伸などの準備体操を終えていた。上に着た黒いTシャツの右胸元には『玉林大学 空手部』と、筆調の刺繍がある。


「それ、空手部に入ってた頃の?」


 海江田が目を止めて訊いた。


「ああ、去年の合宿前に作ったヤツだ。大学じゃあもう着れないからな」


 答えて、犀川は空手着に使っている黒帯を腰に巻き付けて正面で結んだ。

 空手着一式も持ってきたのは、時間があったら朝稽古をするつもりだったかららしい。ストイックというか空気を読まないというか……この男も結構マイペースだ。

 話を終えた浜吉さんが、こちらに近づいて来た。


「準備はいいか? まずは身体をあっためんぞ。四股を百回と摺り足。それからぶつかり稽古だ」

「――はい」


 頷き、犀川は精悍な顔を向ける。気合の入ったその表情は、水を得た魚のように生き生きとして見える。

 さすが体育会系。武道の部活だったことも相まって、こういう場には馴染みやすいのかもしれない。


「要っちはやんないの?」


 着替えることもなく、Gパン、ポロシャツ姿で着た僕に海江田はそんなことをぬかした。


「浜吉さんは犀川が目当てだろ……だいたい、僕は文化系だし」

「いやいやいや、だからこそ! 要っちの貧相な身体はレアで飢えた若い衆にはお好みかもしれないしっ!!」

「もういいっての!!」


 少しシャレに聞こえない気もするからやめろ……。


 広場の中央にある草を刈られた土俵場。そこに群がる男衆の一団に犀川が加わっていくのを眺めながら、僕はため息をついた。


 基本稽古を終えて始まったぶつかり稽古。受け手とぶつかり手とに分かれて行うこの鍛錬は、基本受ける方がしんどいという。

 しかし身体つきのいい若い衆がぶつかり手として次々へばっていく中で、受け手を務める浜吉さんと犀川だけが平然としているのだった。


「どうしたぁっ! 根性が足らねぇ!! 肚からぶつからんかいっ!!」


 浜吉さんの叱咤が飛び、転がされて倒れた若い衆が再度立ち上り向かって行く。しかし数歩も押せぬうちに、すぐに首のうしろを掴まれてまた転がされる。

 犀川は数歩、あえて摺り足を踏ませてから転がしているが、両者の力量は他の男衆と比べると歴然だった。


「腰が高い。上半身だけの力じゃ響かない」


 助言しつつ、犀川は軽くひねって相手を崩す。

 来た当初に向けられていた敵意の視線は、今や脅威と、ちょっとした尊敬の眼差しに変わりつつあった。


「……やっぱ、ホントに強いんだな。犀川……」

「そりゃあフルコン空手の全日本大会で入賞してるくらいだからねぇ~。ただの田舎の力自慢たちとはワケが違うでしょ」


 稽古の様子を見つめ感心してつぶやく僕の横で、海江田は稲村亭の売店で買った干し芋を齧りながら言う。


「……つっても君、犀川がどれだけ強いかわかってて勧誘したわけじゃないだろ?」

「まーね。でも話には聞いていたし」

「……? そうか」


 誰から聞いたかはわからないが(野美さんあたりだろうか?)、こいつの人脈は広いし、その手の情報ならすぐ拾えるだろう。

 さほど深くも考えず、僕は適当に相槌を打って目を土俵場に戻した。


「どうしたぁ! もう終わりかっ!!」


 広場の中心で息も絶え絶えに蹲る男衆らに、浜吉さんが、額から大粒の汗を流して怒鳴る。犀川は涼しい表情のままだ。


「……ちっ!」


 その姿を横目で捉え、浜吉さんは舌打ちした。


「おらっ! 次は申し合いだ!! 立てお前らっ!!」


 檄を飛ばすが、男衆はよろつきながら立ち上がるのがやっとだ。浜吉さんはもう一度舌打ちし、それから睨むような目を犀川へ向けた。


「こいつら、バテちまって話にならねぇ。……仕方ねぇ、次は俺とお前で十番稽古だ。いいなっ!」

「俺は構わないですが」


 男衆たちはほっとしたように胸を撫で下ろし、そそくさと土俵の中から掃けていく。


「まだ動く力はあるんじゃねぇか……たくっ、情けねぇ……」


 ぶつぶつ洩らしながら、浜吉さんは仕切り線の前に立った。反対側に犀川が行く。


「見取り稽古だ。しっかり見とけよ」


 言われるまでもなく、男衆らは二人の対峙に注目している。

 浜吉さんはこの村で一番相撲が強いと言っていた。犀川も、それに負けない胆力を持っているのは今の稽古で見た通りだ。

 実力者同士の対決――さして格闘技などに関心のない僕でも、どちらが強いかは気になる。


「頑張れー、秋吉くーん!」


 横では海江田が一人不似合いな黄色い歓声を上げている。

 男衆は声に出しこそしないものの、村を代表する浜吉さんを応援しているのだろう。

 場をならすよう二、三度足踏みし、浜吉さんはゆっくりと腰を降ろす。合わせて、犀川も仕切りの構えを取った。

 静寂。先に手をついたのは犀川だ。

 受けて立つ構えにプライドを刺激されたのか、浜吉さんの顔が赤くなる。


「――らぁっ!」


 手をつけた直後、浜吉さんは頭から当たりにいった。やや出遅れた犀川はそれを受け止め、がっぷり右四つの形になる。


「浜吉さんの得意な型だっ!」


 男衆の一人が叫ぶ。


「ぶん投げちまえっ! 浜吉さんっ!!」


 それで火がついたように、歓声がわあわあと広がる。


「ぐぐぐぐぐぐぐっ……!」


 攻勢に出ているのは浜吉さんだ。じりじりと、犀川を土俵の端に追い詰める。


「く、ぐぐぐ、ぐぅ~!!」


 しかし、あと一押しが出ない。土俵枠よりも二歩手前で動きは止まり、両者は組んだ状態で制止する。

 この硬直がいつまで続くのか。皆が息を呑んだ――と、次の瞬間、


「――――!?」


 ほんの少し犀川が腰を沈めたのと同時、浜吉さんの身体が半回転し、土俵の中央に背中から落ちていた。


「ぐぉっ!?」


 犀川が右手を離さなかったため、強く打ちつけてはいないだろう。しかし仰向けに倒れた浜吉さんは、何が起きたのかわからないという顔で天を仰いでいる。


「――さあ、あと九番」


 手を離し、浜吉さんを見下ろしながら、犀川は微かに笑みを見せた。


「気合入れていこうか」


 男衆の声はやみ、静まり返った広場。

 そこで浜吉さんは、初めて怯んだような表情を浮かべていた。

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