4-5


 三階まで来ると、上った階段すぐ正面の〝関係者以外立入禁止〟とプリントアウトされた紙が貼りつけられたドアを開けて、川上さんは僕を招き入れた。

 そこは給湯場と隣接してある、六畳ほどの休憩室らしい小部屋だった。

 室内には机、椅子、小さな本棚と、お菓子や雑品が置かれた棚がある。


「どうぞ、座ってください」


 川上さんが手を添えて言ったので、僕は机の前の椅子に腰掛けた。


「紅茶と緑茶、どっちがいいですか? コーヒーもありますけど」

「あ、じゃあ紅茶で……」

「はーい」


 川上さんは手早く電気ポッドに水を注ぎ、シンクの上にあるケースからティーパックを取った。

 湯が湧いたら食器棚からマグカップを一つ選び、軽く湯洗いしたのち、開けたティーパックを入れて注ぐ。


「どうぞ」


 一分ほど置いて、僕の前に持ってくる。

 レディグレイの柑橘の香り。息を吹きかけ一口飲むと、少し気持ちが落ち着いた。


「御堂さんは、本、好きなんですか?」


 棚の傍に立ち、僕を見下ろしながら川上さんは訊いてくる。


「ええ、まあ」

「小説だったら誰とかあります?」

「んー色々読んでますけど、最近好きなのは北方謙三とか……」

「わ、渋い。ハードボイルド系? それとも歴史小説?」

「――両方ですね」

「水滸伝は読みました? わたし、李逵が好きです!」

「あーわかる。いいキャラしてますよねぇ。無邪気だけど強くて、残酷だけど純粋で」

「そうそうっ! わたし思うんですけど、あれだけたくさんの登場人物が出てきてその誰もを魅力的に書きわけることができる作家さんっていうのは、今も昔も探しても、そうはいないですよねぇ~」


 水を得た魚のように、嬉しそうに川上さんは語る。

 本好きにとって自分の好きな本を他人が好きで、その本について語り合えるというのは比類なき喜びだ。

 ――だからわかる。今の彼女の心境は、僕にも痛いほどに。


「ミステリー系ではどうですか?」

「綾辻行人の館シリーズとか、宮部みゆきとか……最近はあんまり読まないけど」

「王道ですよねぇ。デビュー作の十角館のネタ晴らし、たまげましたよぉ」


 ふふっ、と笑って、川上さんは頬を緩ます。

 最近出てきた作家でも面白かった人を探したが、すぐに思いつく人はいなかった。ミステリー系の小説は大学に上がってからあまり読んでいない。

 何でだろうか。前は選り好みせず、なるべく様々なジャンルの小説を読んで吸収しようと努めていたのに。


 ……多分、自分には、絶対こういう小説は書けないと思ったからだ。


 自分に書けないような、複雑に作りこまれた展開と思いもよらぬようなストーリーの物語を誰かが書いている。それを知ることが、知って面白いと思ってしまうことが、悔しくて苦痛で仕方なかったからだ。


 ……つまり、ただの嫉妬か。


「わたしも本好きです。この店には中学の頃から通ってて、大学生になって雇ってもらったんです!」


 内心、軽く凹む僕の前で川上さんは明るく言う。

 いかん。今はしょうもない自己嫌悪に陥っている場合ではない。

 趣味の合う人の前だ。不愉快な気分にはさせたくない。


「そうなんですか。……そういえば、ここで働いてて作家になった人がいたって聞いたけど?」

「あ、新聞の記事ありますよ。見ます?」


 言うが早く川上さんは本棚をゴソゴソと漁り、ファイリングされた新聞紙の切り抜きを持ってきた。


「これ。デビューしたあとにうちの店長と一緒にインタビューを受けたんです」

「へぇ……」


 渡され、僕はファイルの中に目を落とす。

 直木賞を受賞した某有名作家。書いた作品はドラマや映画にもなっている。


「この人、ここで働いてたんだ……」

「そうなんですよぉ。わたしが中学生で、ここに通っていた頃はまだ働いてらっしゃって、編集者の仕事に就いてから作家デビューして……あ、今もたまにいらっしゃるんですよ!」


 我がことのように、目を輝かせて川上さんは語る。


「あの頃はこんなにすごい人になるなんて思ってなかったからなぁ……サイン、貰いそびれちゃった。今だとちょっと、頼みづらいし」

「あはは……もしかして、川上さんも作家を目指してるんですか?」


 話の流れで訊いてみると、川上さんはびっくりしたように目を見開き、ぶるぶると首を横に振った。


「いやいやいやいやいやいや、わたしなんてそんなっ! だいそれたことっ!!」


 ――図星か。


 その反応に心当たりがあり、僕は苦笑する。

 小説を書いている人間がそれを人に言うのは恥ずかしいものだ。僕も文芸部のない中学、高校時代は特にそうだったし、今だって自分からは言おうとしない。

 大学生になり、恥と迷いをかき捨てて現代文学研究会のサークルに入って、初めて自分の書いた小説について語る知人ができた。

 まあ……ロクな思いはしなかったし、結果的に辞めることになったのだけれど。


「えとですねぇ……実は、大学に入ってからちょろっと書いてはいるんですけど……難しいですねぇ、物語を書くのって……」


 人さし指をつんつんと突き合わせ、囁くように川上さんは言う。


「人に見せられるレベルなのかっ! って思うし、あとになってから見返すと、やっぱり自己嫌悪するほどひどいし……」

「あはは……でも、その繰り返しで少しずつうまくなっていくんじゃないですか。三歩進んで二歩下がる、って言うし」


 我ながらどの口が言うか! というアドバイスだ。

 しかし、川上さんはその言葉で弾かれたような笑みを浮かべ、ぐぐいと顔を近づけてきた。


「――そうですよねっ! 悩んでいても、続けていれば……きっと、少しずつでも成長できてるハズですよねっ!!」

「あ……う、うん……」


 ふんす、と鼻息荒く念を押す。

 大人しそうな外見に似合わぬその迫力に圧され、僕は思わずのけ反った。

 はっとしたように、川上さんは身体を引く。


「あ……ごめんなさい。ここのところ、ちょっと煮詰まっていたもので……」

「いや、あははは……」


 言うべき言葉が見つからず、乾いた笑い声をあげていると、休憩室のドアが叩かれた。


『――かな子ちゃん、いる?』

「店長? ……あ、はーい!」


 小走りで行って、川上さんがドアを開ける。


「ごめんなさいね、任せちゃって。もう済んだから」

「わかりました。じゃあわたし戻りますね」


 僕に向かって一礼し、川上さんは部屋を出て行った。代わって年配の女性が入ってくる。

 歳は五十代くらいだろうか。白が混じったアップの髪型、動きやすそうなワンピース。上には川上さんと同じエプロンを付けている。


「ごめんなさいね、お待たせしちゃって。ちょっと配送業者とトラブルがあって」

「いいえ、たいして待ってませんから……」


 慌てて立ち上り、僕は姿勢を正す。


「えーと、御堂要さんだったわね。わたしがこの吉岡書店店主、吉岡奈央子です」

「どうも、御堂です……」


 僕が名乗ると、吉岡さんは小さく頷き微笑んだ。

 上品な空気を纏った人だ。しかしお高くとまっている風でもなく、柔らかな物腰にフランクさも備えている。


「座ってちょうだい。じゃあ……まずは履歴書を見せてくれるかしら」

「はい」


 持参したバッグからクリアファイルに入れた履歴書を取り出し、向かいに座った吉岡店長に僕は渡した。

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