長野編 3-2


 松の木の上には満月が輝いていた。昼間に見た時よりも日本庭園は夜空に映え、非日常的で雅な空間を演出している。

 泉の横、平坦な地面が広がるところで立ち止り、秋吉は室伏と対峙した。


「――まったく、何が起こるかわからんものだ」


 唇を歪め、室伏が口を開く。


「玲実にお前らのような友人ができるとはな。東京でどんな生活を送っていたかは知らんが、連絡を取る限り、あまりうまくいっているようには思えなかった」

「知り合ったのは、最近だ」


 間合いを計りながら、秋吉は低い声で答える。


「ふん、そういえば玲実もそんなことを言っていたか。この村に残るか、東京に出るか……どちらがあの娘にとって幸いなのかはわからなかったが、玲実は東京へ行くことを望んだんだ。だから手助けをしてやった。そして五年後、今度は夢瑠の姉を連れ戻したいという願いに力を貸した。そうしたら、お前らがやって来た……」


 くっくっく、と室伏は笑った。

 彼は饒舌だった。そんなことを言って何の意味があるのか、と思うようなことを楽しげに喋っている。それは口が赴くままに、ただ動かしている印象を秋吉に与えた。

 相槌も打たず、秋吉は室伏を見据える。


「頼子は二人の力になることを俺に言い残したからな。俺はそれに従っただけだ」

「あんたにとって実里沢の祖母……頼子さんというのは、どういう存在だったんだ?」

「恩人さ」


 言って、室伏は目を眇めた。


「命を助けてもらい、生きていく場所を与えられた。……頼子も、俺があの二人の親代わりになれないことはわかっていたんだろうな」

「――そうか」


 頷き、秋吉は身体の力を抜くように二、三度小さくジャンプした。そして口元に右手、左手を大きく前に出した構えを取る。


「気が早いな。ダメージはまだ残ってるだろう。ハンデでもやろうか?」

「もう一つ訊きたい」


 挑発を無視し、はっきりとした声で秋吉は言った。


「犀川――という名字に聞き覚えはあるか?」


 室伏の表情から、浮かんでいた軽薄な笑みが消えた。


「……お前の名前だったか。それを俺が知っているかと?」

「母の以前の性だ。今は俺だけが使っている」


 室伏は、少し顔を俯かせた。


「さあ……どうだったかな」

「そうか。――わかった」


 短く目を瞑り、秋吉は一歩、間合いを詰めた。


「行くぞ」

「行儀が良すぎるな。負けた相手に対して――」


 言葉と同時、ゆらり、と前脚に体重をかけた室伏が一気に距離を潰す。秋吉は右の前蹴りを放つ。右手で捌き左に回り、室伏は縦拳を打つ。ガードの上。続けざま、室伏の肘が飛ぶ。防御。近距離で突き出した秋吉の膝が、室伏の鳩尾にめり込む。


「――ちっ!」


 顔を歪めてうしろに飛び、室伏は前蹴りで牽制する。その蹴り終わりに合わせて、秋吉が放った左上段回し蹴りが室伏の眉横を掠める。


「……っ!」


 たたらを踏んで室伏は大きく後退した。息が乱れ始めている。


「今の間合いが、あんたの攻撃射程」


 秋吉に呼吸の変化はない。じっ、と室伏の挙動から視線を離さず告げる。


「瞬時に距離を詰める独特の歩法、縦拳は突き技の中でもっとも初動作が速い。さらに近い距離では隙の少ない肘打ち。これが、あんたの攻撃の要。シンプルだが初見では厄介だ。だが――」


 秋吉は、再び左手を長く前に突き出した。


「もう、あんたに距離は詰めさせん」

「……ほざくな、小僧」


 表情に凶暴さを滾らせて、室伏はだらりと両手を下げた。


「やってみろ。できるものならな……!」


 視線が、空中で交錯する。

 瞬くような間を置いて、二匹の獣は再び地面を蹴った。


                  ※


 玄関の照明が数度点滅してまた点いた。そろそろ変え時なのかもしれない、そんなことをよもぎは思った。

 目前では玲実が夢瑠と対峙している。

 三和土に立った夢瑠は置き去りにされた子供のような顔をしていた。その姿を見て、よもぎは彼女がまだ高校生だったことを思い出す。


「夢瑠」


 玲実が踏み出す。弾かれたように、夢瑠はびくりと身を震わせた。


「っ――来ないでくださいっ!」


 怯えた子犬のように、夢瑠が叫んだ。玲実の足が止まる。


「わ、わたし……わたしは……」


 つぶやいた彼女に、あの集会の時のような光和会支配者としての泰然たる雰囲気はなかった。年相応の少女――いや、よもぎの目にはそれ以上に幼く映った。


「ただ、姉さんを連れ戻したかった……姉さんとこの村で暮らしたかった……あの頃のように……だからっ!」


 拳を握り締め、夢瑠は顔を俯かせる。


「お祖母ちゃんのように……姉さんを支える語り部になるために、必死になって勉強した……これが村のためになるって、みんなを説得した……光和会を立て直したのもそのため……そんなわたしの気持ちが、努力が――」


 顔を上げ、嘆きを訴えるような目を夢瑠は向けた。


「――憑かれているからだって言うの? わたしの気持ちが、嘘だっていうのっ!?」

「そうじゃないよ、夢瑠」


 抑えた声で、玲実は言った。


「あんたがウチを慕ってくれていたことはわかってる。ウチが東京に行ったあと、この村に連れ戻したかった気持ちも本音だろう。でも……」


 玲実の首が少し動く。夢瑠の背後を窺うように。


「常世のモノの中には執着に囚われた心の隙を突き、〝憑いてくる〟モノもいる。――あんただって、勉強したなら知ってるはずだ」

「そんな……でも、わたしが……」


 つぶやいた夢瑠の足元が揺らぐ。


 ――今、だな。


 ここが機と見て、よもぎは両手の指を複雑な形に組み合わせた。狐の窓。怪異の正体を見破る鏡。


「〝けしやうものか、ましやうものか、正体をあらわせ〟」


 三度唱えて夢瑠を覗くと、背後の空間が歪むのがわかった。人の姿。恰好は夢瑠が着ている巫女服のような。


 ――あれが、夢瑠に〝憑いているモノ〟。


「あんたの気持ちは嘘じゃない。そして――ウチはそんなあんたが、鬱陶しかった」

「――――っ!」


 夢瑠の目が大きく見開かれた。

 瞬間、狐の窓の中で夢瑠の背から歪みが離れる。よもぎは手を解き、首から掛けた勾玉を握り取って玲実の前に走り出た。


「しっ!」


 投擲。夢瑠の背後に勾玉が飛ぶ。一瞬、何かに当たったように空中で制止して煌めき、すぐに三和土に落ちた。


「……あ」


 間を置いて、膝から崩れるように夢瑠は腰を落とす。

 表情に浮かぶのは放心。夢から覚めたようであった。


「この村を出て、ウチは新しい自分として生きてみたいと思った」


 よもぎの頷きを見て、玲実はゆっくりと夢瑠に語りかける。


「巫女としてのウチじゃなく、実里沢玲実という人間として、最初からやり直したいと思ったんだ」


 歩を進め、玲実は夢瑠の前に来た。呆けたように顔を向けてくる妹を見下ろし、それから屈みこみ、彼女の身体を抱きしめる。


「――でも、それは過去を捨てることじゃなかった。過去を受け入れて、それを含めたウチとして、ウチは生きるべきだったんだ……」


 抱きしめる手に力を込め、玲実は言葉を詰まらせた。


「ごめん、夢瑠……あんたを残して行ったのはウチのエゴだ。ウチは勝手だったから、あんたや村のみんな、自分の過去の一切を無視して、それが無かったように生きていこうとした」

「……姉、さん……」

「でもダメだった。ウチはあんたやこの村、見鬼の巫女としての自分と向き合って、ウチの一部分として受け入れないといけなかった。空っぽなのに何かあるように見せかけて、そのクセ自分の力を過信して……だから疎外されたんだ。自分が特別だって勘違いしてたんだよ。この村に戻ってきて、それがわかった」


 夢瑠の頬に一筋の涙が零れる。それを見て、よもぎは三和土に降りて勾玉を拾った。

 抱きしめていた手を緩め、玲実は夢瑠を見つめる。


「夢瑠、ウチにもう巫女はできない。ウチは特別じゃないし、それがウチの決めた生き方だから。――だけど、あんたはウチのたった一人の妹だ」


 玲実は穏やかに微笑んだ。


「ウチらはさ、お互いのことをロクにわかってなかったのかも知れないよ。だから、まずは色んなことを話して、色んな経験をして、空いてる部分を埋めていこう。きっとそれを言うために、ウチはこの村に戻ってきたんだ――」


 夢瑠の瞳からはぽろぽろと涙が溢れてくる。それは五年前、玲実がこの村を去った時に流したかった涙なのだろう。

 巫女と語り部。そして光和会――その本質は、実里沢という見鬼の力を持つ一族がこの村の支配者となるために作ったシステムだった。しかし、いつしか村民の方がそれに依存するようになり、さらに世代は代わり、光和会と村からは人が離れるようになっていった。

 夢瑠に憑りついたのは変容して朽ちていく村をなお昔のままに残したいと願う、この土地に宿った人々の観念なのかもしれない。


 ……それでも、物事にゃ終わりってモノがある。


 黒光りする勾玉から、よもぎは二人へ目を向けた。

 しゃくりを上げる夢瑠を玲実があやしている。この姉妹の決着はついた。これからのこと、村民との話し合いなどやることはあるだろうが、これで前に進むことができる。


 ――さて……要っちを迎えに行かなきゃな。


 勾玉を首にかけ直し、仄かな期待を胸に、よもぎはそう思った。

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