長野編 3-3


 屋敷の大きさと豪華さに相応しい、広くて美しい庭だった。

 枯山水。選定された木々、島を模して配置された苔岩、波立つように敷き詰められた小石。庭の三分の一は竹林になっており、ちょっとした公園並の広さだ。

 屋敷の中を一通り見終えると、僕はこの庭に面した縁側に座り、ぼんやりと景色を眺めていた。

 牛舎、大広間、茶室、台所――どこも整理され、丹念に掃除されていたが人のいる気配はない。玄関周囲の鶏は撒かれた餌を啄みつつひょこひょこと自由に歩き回り、繋がれた牛は草を食んでは暢気な鳴き声を上げている。

 他に聞こえるものといえば微かな木々のざわめきか、時折飛んでくる鳥の声。空は透き通るような晴天で、心地良い日差しが射してくる。


 ――何て贅沢なんだろう、と思った。


 庭の造りは華美ではなく、むしろ洗練された最小限のもので美しさを表現している。それで十分。これ以上は必要なく、これが完璧で完全。決して主張してくることはないが、見ていると心に染み入るような充足感が湧いてくる。

 昔の貴族やら武士やらが庭の造りにこだわった理由がわかる。シンプルだが作るのには恐ろしく手間がかかり、しかし完成された景色は、見る者の心に無限の平穏を与えてくれるのだ。


「……これは、いいな」


 身体の力を抜き、僕は誰に言うでもなくつぶやいた。

 この場所は満たされている。ただ穏やかで雑多なものはなく、静謐で透明な空気が世界を支配している。

 これ以上に望むものなどあろうか。夢も、友人も、家族も、恋人も――求めれば自分を傷つけ、例え手に入れてもその喜びはすぐに薄らぐ。

 手に入れたものを守るため、不安に怯えて自分を削り、ついにはその価値すらもわからなくなる。

 欲望と苦しみの裏返しの世界――そんな場所に〝居る〟ことに、どれだけの意味があるのだろう。


 ……もう…………いいか…………。

 

 ひどくのどかな気分で僕は思った。かつてここまでくつろいだ心地になったことはない。満たされるとは、こういうことを言うのか。

 

 ……もう…………ここで…………いいか…………。

 

 夢に足掻き才能の無さに苦しみ、努力の甲斐は得られない。そんな世界で地べたに這いつくばるしかないなら、ここにいていいではないか。

 ここには友人も家族も恋人も夢もない。しかし、その代わりにすべてがある。

 

 ――僕の望む、永遠の穏やかさがある。

 

 身体を包む陽射しの心地良さに浸りながら、僕はゆっくりと目を閉じた。ここでいい。これ以上のことは望まない。

 僕はただ、穏やかに……苦しまずにいたいだけなのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 いったいどれだけの時間が過ぎただろうか。

 夜のないこの世界で、しかし時間は確実に刻まれ、いつの間にか伸びた髭は膝にまで届いていた。

 ここに座り続けて――食事も睡眠も排泄もず――それでも私は生き続け、四季の変化で彩られる庭を眺め続けた。

 私は幸福だった。もはや自分の名前も、ここに来た理由も、かつてのほとんどのことを忘れかけていた。ただここにいて、庭という世界を眺めているだけで満足だったのだ。

 それが私のすべてで、この世界のすべてで、何も変化はなかった。

 

 ――しかし……。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 何十回目の春を迎えただろう。

 身を浄化するような寒さから、柔らかな陽光に癒される季節に移った頃、その来訪者は現れた。


「こんにちわ」


 しばしの間を置いて、私は数十年ぶりに首を動かした。

 縁側に座る私の横に、いつの間に表れたのか、一人の少女が立っていた。

 肩で切り揃えたおかっぱの髪型。垂れ目がちの大きな瞳。着ている服は白いパジャマだ。

 見覚えがある気がしたが、ぼんやりとしか思い出せなかった。私が虚ろな眼差しで見つめていると、少女はにこりと愛想よく微笑んだ。


「こんにちわ。あなた、この家の人ですか?」

「……ああ」


 掠れた声で私は言う。少女は満足気に頷き、一歩近づいた。


「綺麗な庭ですね。隣、座っていいですか?」


 私が頷くと、少女はちょこんと腰掛けた。


「あたしね、数ヵ月前から色んなところに行ってるんですけど、こんな場所は初めてです。世界の枠から外れたような、偶然できたくぼみみたいな」


 奇妙なことを言いながら、少女は脚をブラブラさせた。

 その姿を見ていて、私は自分が答えたことに語弊があるのに気づいた。私も少女と同じ訪問者だ。この家の主というわけではない。


「そうなんですか。じゃあ、どれくらい前からここにいるんですか?」


 私が告げると、少女は興味深そうに訊いてきた。


「……何十年も。もう、思い出せないくらい前から」

「へぇ~! そうなんだ」


 目を大きく開けて、少女は感心したように言った。それから庭に視線を向け、考える顔をしたあとで、


「――じゃあ、あたしもここにいていいですか?」


 そんなことを言ってきた。


「あたし、帰るところが無いんです。……正確に言うと帰れるところはあるけど、そこであたしを待っている人はいない、って感じ」


 私は少女を見た。

 口にした言葉の割に悲壮感はない。理由を言って、もう少し遊んでいたい、と訴える無邪気な子供の顔だ。


「……好きにすればいい。私も好きにしている」

「じゃあ、そうしますねっ!」


 へへっと悪戯っぽく笑い、少女は鼻歌を歌いながら天を仰いだ。

 しばらくして、思い出したように私へ顔を向け、


「お名前なんていうんですか?」


 と訊ねた。


「忘れたな」


 庭を眺めたまま私は答える。


「あ~そっかぁ~」


 少女は少し残念そうに、しかし気落ちした様子は見せず、また笑ってみせた。


「じゃあ、あたしの名前――よもぎっていうんです。覚えておいてくださいね?」


 溌剌とした声に耳を傾け、私は小さく頷いた。


                  ※


 少しずつ、室伏の動きは落ちていた。

 緩やかでありながら素早い、迷いのない踏み込み。それがこの男の攻めの持ち味だが、接近戦を捨てて遠い間合いでの攻防に徹すれば蹴りの多彩さで秋吉が勝る。

 プレッシャーをかけ、耐えきれずに仕掛けてきたタイミングでカウンター。下段、中段、上段、前蹴り、横蹴り。初戦では思いもよらぬ動きで翻弄されたが、わかっていれば対処できる。秋吉は冷静だった。

 ガードの上からでも当てていけば確実にダメージは蓄積される。そして、室伏の攻撃は秋吉に届かない。

 真綿でしめるように、秋吉はゆっくりと追いつめていった。


「――くっ……はぁ、はぁ……」


 攻撃を回避し、室伏は横に飛ぶ。すぐに追って秋吉は向き合った。

 肩で大きく息をする相手に、じりじりと距離を詰める。


「まったく……えげつない攻め方をしてくるな……」


 口元を歪め、室伏は皮肉るように言った。


「ガードを固めたアウトボクシングなど、つまらん試合だと思わんか?」

「これは試合じゃないだろう」


 淡々と、平坦な声で秋吉は答える。


「くっ、まったく……その通りだな……」


 失笑し、室伏は一度ゆらりと身体を右に振り、地面を蹴った。


「しっ!」


 秋吉の右中段回し蹴りが飛ぶ。腕でガードするが勢いに押され、室伏の体勢が崩れた。追撃、秋吉は着いた右足で横蹴りを放つ。


「――っ!」


 蹴り足の踵が脇腹にめり込み、室伏は膝を着いた。秋吉は動きを止める。


「……もう十分だろう」


 腕を下げ、低い声で秋吉は告げた。

 勝敗はついている。体力的に若い秋吉に劣る室伏が、ここから巻き返すのは困難だ。

 だが――。


「くっ……くっくっく……」


 掠れた笑い声を洩らしながら、室伏はゆっくりと立ち上がった。


「何を言っている。俺は、まだ動けるぞ……。お前は甘い。自分が勝ちだと言うなら今、決着をつければよかった……」


 目を細め、秋吉は両腕を上げて構えを戻す。


「――それは俺の空手に反する」

「綺麗ごとだな、これは試合じゃないんだぜ。お前、その綺麗ごとを従順に守っていれば、誰かに認められると思ったか?」


 秋吉は室伏の顔を見た。

 疲弊しているのわかる。が、目に宿る凶暴な光は力を失っていなかった。


「お前には汚さやズルさがない。それは気高く誇り高いことだ。……でもな、この世界で生きていくには、そういったモノに頼らなきゃならない時が必ず来る」 


 言い聞かせるよう室伏は言葉を紡ぐ。表情からは歪んだ笑みが消えていた。


「それを飲み込めなければいつかお前は壊れる。自分と、この世界の在り方の違いに耐えきれなくなってな……」

「それはあんたが……あんたがそうだったからか?」


 閉口し、室伏は秋吉を見つめてきた。

 凶暴な瞳の輝きに哀しげな色が混じる。何か言おうとして、しかし室伏は目を伏せ、唇を噛んだ。


「……さあな」


 つぶやき、腰を低く落とした構えを取る。


「ともあれ、確かに俺も限界だ。次で最後……俺の渾身の突進、潰してみせろよ……」


 応えるように、秋吉は左手を前に突き出した。

 天上では月の前を雲が通る。翳り。静寂。僅かな風のせせらぎだけが秋吉の耳に届く。

 やがて煌々とした月明かりが、二人の姿を照らし出す。


「――しっ!」


 黒い影となって室伏が疾走する。迎撃。秋吉が右足に重心を移した瞬間、室伏の手から礫のようなものが飛んだ。

 土。先ほど膝を着いた時に掴んだのか。視界が奪われる。


「――獲った!」


 叫びと共に、室伏が縦拳を放つ。視力はまだ戻らない。

 構うか。距離は十分。何千回、何万回と繰り返し稽古してきた動きだ。


「――はっ!」


 スウェーバックのように身体を反らし、秋吉は抱え込んだ左足を解き放った。室伏の左拳が届く直前、彼の右側頭に昇り龍のような蹴りが叩き込まれる。弾けた音。吹っ飛ばされ、室伏は仰向けに倒れた。

 視力の戻った目でそれを認め、秋吉は残心を取る。


「…………やるじゃないか……」


 小さくつぶやき、室伏は満足そうに目蓋を閉じた。

 残心を解き、秋吉はその表情を見つめる。

 いつか感じた一抹の懐かしさが、胸の中をよぎっていった。

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