長野編 3-1
廊下の先、徐々に近づいてきた足音は部屋の前で止まった。次の瞬間、勢いよく襖が開く。
「――よかった! やっぱりここだった!!」
「レイミー!?」
息を切らして入ってきた玲実を見て、よもぎは立ち上り格子を掴んだ。秋吉も目を開き、その姿を捉える。
「どうやってここに? 要っちは?」
格子の扉にぶら下がった南京錠に鍵を通す玲実に、よもぎは矢継ぎ早に問いかける。
「御堂が囮になってくれたっ! 夢瑠の親衛隊はあいつを追って山の中に行ったよ――海江田、犀川。お願い、ウチに協力してっ!」
「協力?」
「夢瑠を止めたい……ウチのせいで、あの娘に憑いてしまったモノを払いたいんだっ!」
錠を解き扉を開けて、玲実は真剣な目で二人を見つめた。よもぎはすぐにニヤリと笑い、ぐっと親指を立ててみせる。
「おーけー、手伝いましょう。何せあたしら、同じサークルの仲間だもんねっ!」
振り向きよもぎがウィンクを投げると、ふっと笑い、秋吉は頷いた。
「……ありがとう」
表情を少し和らげ、玲実は礼の言葉を口にした。
「裏の遠頼山っていうのは深い山なの?」
「山頂に行くまでならそうでもない。でも、夜だと道がわかりづらいから上るのには苦労すると思う」
屋敷の廊下を早足で進みながら、よもぎと玲実は会話をかわす。うしろには秋吉も付いてきている。
「文系だからなぁ、要っち。まさかのヒルクライムで今頃ヒーヒー言ってるだろうねぇ」
よもぎが叩いた軽口に――しかし、玲実は思いの外深刻な表情をした。
「ごめん……あんたたちに頼るかしかなかった。本当なら、ウチが一人でかたづけないといけない問題なのに……」
「なーに言ってんのよ」
つぶやいた玲実の背中を叩き、よもぎは笑いかけた。
「言ったでしょ、あたしら同じサークルのメンバーじゃない? それに要っち、体力はないけどあれでメンタルは結構タフだからさぁ。秋吉くんに頭蹴られてもすぐ起きたし、そう簡単にはへこたれないよ」
「……うん」
頷き――それから玲実ははっとしたように足を止め、視線を正面へ向けた。
玄関入り口、屋敷内の物音に異常を察したのか、夢瑠と室伏が入って来ていた。
「姉さん……どうして……」
三和土に立ちつくしたまま、夢瑠はポツリとつぶやいた。隣の室伏は秋吉の姿に目を細める。
「夢瑠」
妹を見据え、玲実はゆっくりと歩を進めた。
「――裏口から入ったのですか。あのメガネを目くらませにしてっ!」
動揺を押し殺し、どうにか平静を保った声で夢瑠は言った。玲実は三和土の数歩前で立ち止る。
「どうしてこんなことを……わかってるんですか? そいつらは姉さんを利用するつもりですよっ! 姉さんの力に目をつけて、それを自分たちの私欲のために使おうとする連中なんですよっ!?」
叫んだ夢瑠に唇を尖らせたが、よもぎは何も言わなかった。今夢瑠と相対しているのは玲実だ。邪魔はできない。
「それは光和会も変わらないよ」
「――そんなっ!」
狼狽を露わにし、夢瑠は叫んだ。もう感情を抑えるのは無理なようだった。
「わたしは姉さんのために……姉さんの居場所を作るために、必死になって光和会を――」
「ねぇ夢瑠。お祖母ちゃんが言い残したこと、覚えてる?」
落ち着いた声で、玲実は夢瑠に語りかけた。夢瑠は言葉をつまらせる。
「自分は好きなように生きたから、ウチらにも好きなように生きろって。あの人は勝手な人だったし、ウチのことを道具として扱っていたけど……それでも、ウチらを育ててくれた親だった」
夢瑠は唇を噛んだ。
「だからウチはあの人の言葉に従って東京に行ったよ。この村も、あんたも捨ててね。それを悪いこととは思わなかった。人は一人で生きてくものだって、ウチはあの人に教わったから。……でも」
玲実の瞳が動く。その目は夢瑠ではなく、彼女の背後にある〝別の何か〟を見ていいるようだった。
「あんたはそうじゃなかったんだね。だから〝そんなモノ〟に魅入られてしまった」
「――室伏っ!」
玲実の言葉を遮るように、夢瑠は叫んだ。
「姉さんは洗脳されていますっ! あいつらから引き離して――」
「小僧、ここじゃあ場所が狭いな」
夢瑠の命令を無視し、室伏は秋吉に言った。
「戦るつもりなら表に出ろ。ただし次は容赦せん。しばらくはまともに動けなくなるかもな」
凄惨に笑って告げると、室伏は夢瑠に目を落とす。
「夢瑠。俺はお前と玲実の助けになると頼子に誓った。だからな、お前ら姉妹同士のやりあいは自分でケリをつけろ。でないと、どちらにしろ後悔することになるぞ」
呆然と見上げる夢瑠に言って、秋吉に目配せする。
「俺も生きたいように生きてきた。これ以上お前らにとやかく言うつもりはない」
言い残し、玄関を出て行く。
「犀川……」
そのあとに続いて足を踏み出した秋吉の背に、玲実が声をかける。
「大丈夫だ」
首だけを向けて、秋吉は言った。
「実里沢、君は君がやるべきことをしろ。俺もそうする」
少し笑い、それから夢瑠に一瞬目をやり、その横を通り過ぎて外へ出た。
「う……あ……」
二人がいなくなると、夢瑠は途方に暮れたように呻いた。玲実の視線が、また何かを追うようにして動く。
――ふむ。
各々の動きを見て、よもぎは得心したように頷いた。
納得。自分が予想していた出来事が、きわどいバランスを保ちつつ思わぬ形で成されていく。まったく世の中というのは奇妙の連続だ。
この世界はバタフライ効果で成り立っている。ほんの僅かな波動が、それぞれが向かう終着点にこうも大きく作用してしまうのだ。
※
木々の立つ間隔は次第に狭まり、空から注いでいた星明りもいつしか消えていた。
身体は依然として重い。でも闇の中で目は慣れてきて、ただ障害物のない方へと脚を動かし続ける。
周りから聞こえるのはささやかな虫の音だけだ。背後から追ってくるような気配もない。諦めたのだろうか、それとも山頂の方の道へ行ったのか。
……どうでもいい。そんなことは、もうどうでもよくなっていた。
実里沢姉妹のことも。マヨイガ探索隊も。犀川も。――海江田も。
今、沈んだ胸に浮かぶ姿は彼女――川上かな子のことだけだ。
僕より執筆歴は短く、しかしその才能は僕を遥かに凌いでいた。だけれど、僕に途方もない絶望を与えたのは彼女の才能ではない。
彼女の小説を読み、自分が凡庸な小説しか書けないことに気づいてしまった――その事実こそが、僕を絶望に突き落とした原因であり、現実なのだ。
最初は川上かな子の才能に及ばないことが悔しいのだと思っていた。でも本当に無念だったのは、自分の書くものに今以上の伸びしろを感じないことだ。
今まで書いてきた小説を顧みて、彼女の小説に感じた輝きの、ほんの片鱗でも見たことがあっただろうか。
――無い。そう断言できる。
いずれ成長する、何かが変わると信じて、写経したり良書を読んで文章力をつけても、自分のアイデアに他とは違う煌めきを見つけたことは一度として無かった。何故それに気づかなかったのか。気づいていても、目を向けようとしなかったのか。
どこで勘違いをしたのだろう。本が好きで、小説を読むのが好きで、だから僕にはきっと小説を書く才能がある。努力も苦ではなかったし、嫌なことにも耐えられた。
でも、それが思い込みだと気づき――だけど、思い込みだと自覚してしまうと僕を支えているものが崩れてしまうから――信じ込もうとしていた。
僕には小説を書く才能があると。いつかきっと、多くの人に認められるものが書けると。
そう言い聞かせて目を逸らしてきた。
何の輝きもない自分の姿を、直視しようとしなかった。
だけれど川上さんの輝きは眩し過ぎて、僕が見ないようにしていたものまで照らし出されてしまった。
無数に散らかる駄文の山。積み上がり身体を覆っているのに、必死に上だけを見上げている僕自身の姿を。
「……く、くくっ……」
自然と笑いが零れる。
他者とは違う特別なものが自分にあると思っていたことが滑稽だった。そんな根拠などどこにもなく、僕はどこにでもいる凡夫の中の凡夫だった。
いや……まともな人間関係が築けず現文研のサークルからは逃げて、バイトでは役に立たずクビになり……凡夫以下の負け犬だ。
何でそんな当然のことに気づかず、平気でいられたのだろう。
最近は物思いにふけるには騒がしく、厄介ごとにも巻き込まれるし、自己嫌悪する時間もなかった。
……そうだ。海江田と出会ってから、僕は……。
「……っ!」
ぱきっ、と木の枝を踏んだ足が止まる。顔を上げると、目の前の茂みから光が漏れ出ていた。
まだ宵の口になってからさほど時間も経っていないはずだ。なのに、茂みの向こうから射してくる光は昼間のように明るい。
呆然と、しばらくそれを見つめて――やがて僕は意を決し、草をかき分けて木々の間を抜けた。
「――――っ!」
先には開けた空間が広がっていた。
空は青く、射す陽射しは清々しいほどに澄んでいる。
目の前にはそびえ立つ黒い門。束の間の躊躇いのあと、僕はその扉に手を触れた。
門の入り口は軽い軋みを伴って開き、恐る恐る中に足を踏み入れると、奥の屋敷を囲むようにして生えた紅白の木々が目に飛び込んできた。
その鮮やかな光景にしばし目を奪われ――ふと、足元に何かが動く気配を感じて顔を向けると、コッコッと鶏が鳴き通り過ぎてゆく。
「ここは……」
こんな奇妙な場所に心当たりなどあるはずがなかった。
夜の山中にある豪華な屋敷。しかも、空は晴天。
それでも、僕にはここがどこだかわかっていた。常世と現世の狭間。それに合う波長を持つ者だけが訪れることのできる、境界の世界。
――すなわち、〝マヨイガ〟であると。
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