長野編 3-5


「メガネさんは、人は何のために生きるんだと思います?」


 脈絡もなく、よもぎはそんな哲学的な問いを投げてきた。

 即答するには選択肢が多すぎる質問だ。私は見上げてくる彼女の目から顔を逸らし、枯山水の砂紋を眺める。


「……さあ、何のためだろう」

「あたしはね、意味なんてないと思うんですよ」


 考えあぐねて曖昧なことをつぶやいた私に、よもぎはあっさりと言い切った。


「どうしてかってね、前読んだ本に書いてあったんです」


 得意げに右の人さし指を立てて、よもぎは教え子に解説する講師のように語る。


「数ある人類種の中で、たまたまサピエンスというあたしたちの種で認知革命が起きて、想像を信じる力とそれを現実にする力を手に入れました。長い生物学の歴史の中でそれは凄いことだと思うんですけど、あくまでただの偶然に過ぎなかった。あたしたちがこうして出会えたように」


 少女らしからぬ語り口で言って、よもぎは脚をブラブラと動かす。


「認知革命以後の工夫と挑戦、そして農業革命と科学革命を経て、あたしたちはこの地球上で他の生物にはない知能と力を持つ存在になった。何故そうなれたのかというと、特別だから。特別だから自分たちの命には他種族を凌ぐ価値があり、彼等を糧とすることが許された。そう信じて――そう信じたくて、たくさんの宗教やイデオロギーが作られ、人は人生に生きる意味を求めるようになった。……でも、それは結局あと付けの理由でしょう。それも生きるための理由じゃなくて、生きる理由を作るための理由」

「つまり……人が人として進化したことがたまたまなのだから、その人が生きる理由にも意味なんてない。君はそう言いたいのか?」

「そうです。だから生き続ける必要もない」


 庭の松の木にとまった小鳥たちが囀っている。よもぎはちちちと口を鳴らした。


「今の時代自殺する人が多いのって、それが理由じゃないですか。本当に切羽詰まった人を除けば。この世に意味なんてありません。生きる理由もございません。そのことにうっかりと気づいて、ならば今死ぬのもよかろうじゃございませんか――って」


 芝居がかった仕草で言って、よもぎは私を覗き込むように見つめてくる。


「ね、どう思います?」


 言っていることはまったく退廃的なのに、この娘の表情は生き生きとした好奇心に満ちている。知らないモノが知りたくて、見たことがないモノを見たいという欲求。それが素直に表れているのだ。感情を表すから表情、とはいったものだ。


 ……そんなヤツを知っていた。


 興味を持てばすぐ首を突っ込み、異常な行動力で周囲を巻き込みながら突っ走っていくヤツを。


「――そうかも、な」


〝僕〟は口を開いた。

 頭の中で自分の心と持っている言葉を整合しながら、ゆっくりと話す。


「人が生きるのに意味なんてないのかもしれない。地球規模で見れば僕ら一人一人は取るに足らない存在だし、人の一生なんて、宇宙の歴史で測れば瞬きにもならない時間だ」


 そんな短い時間に意味などない。ほんの少し光って消えるだけの存在に何故意味を求める必要があるのか……いや。

 確かにそう言われるかもしれない。それは紛れもなく一つの真実なのかもしれない。

 それでも――。


「それでも……〝僕ら〟には、〝僕らが生きる意味〟があるんだ、と思う」


 よもぎの表情が不思議そうなものに変わった。横目でそれを見て、僕は続ける。


「長い時間……宇宙の歴史の側に立てば、僕らに意味なんてないだろう。でもこちら側――僕らが僕らだという個の視点に立てば、瞬くような光の中でやり通したことが自分を生きたという証になる。その証を残すために、僕らは生きて〝何か〟をやり遂げないといけないんだ」

「でも……それも延々と続く時間の中で、無に帰っていくんですよね?」


 それなのに証など残す意味があるのか。

 苦しみもがいて、どうにもならない絶望を味わって――それでも、自分が生きたという証を示す必要があるのか。


「あるんだよ。それは宇宙とか地球とか生物史とか、そんなこととは関係ない。もっといえば僕らという人類種、サピエンスにも関係ない。ただ僕――〝僕〟という個が、示したいものなんだから」

「それを示して、いったいどうなるっていうんですか?」


 なおも問いを重ねて、しかしよもぎは戸惑ったような、気圧されたような顔をしていた。

 それは例えるなら――ネットの掲示板のレスバトルで思わぬ理屈に面食らったような表情だ。


「決まってるよ。そうやって生きてた方が、絶対〝楽しく〟なるからだって」


 叩きつけられて、這いつくばって、敗北して、何度も何度も否定されて――。

 それでも……それでも諦めきれないものがある。僕にはあったんだ。


「夢を追うのも生きがいを見つけるのも、自分の生き方を示すためだ。だから僕が思うのは、ただ〝生きる〟ということに意味を持たすのなら――苦しもうが痛めつけられようが絶望しようが、自分が思う〝楽しむ〟のために、必死になって動くことだ」


 そうだ。僕は君と出会えて、君の迷惑に巻き込まれて、君の行動に振り回されて――そんな日々が楽しかった。

 自分の才能の無さに感じた失望も、自分の小説に対する無念も、君のせいで忘れていた。僕が感じた感情なんてその程度のものだったんだ。

 まだ僕は書ける。書くことができる。敵わない壁があっても諦めるにはまだ早い。

 それを教えてくれたのは、君のしつこすぎる執念と折れない心なんだ。

 もう一度、僕は君に会いたい。そして君には前を向いていてもらいたい。

 こんな静かすぎる場所で落ち着くなんて君らしくない。君はいつだって思ったままに走っていき、周囲のことも顧みず、一人不敵に笑っているのだから。


 しょうがないなぁ、要っちはぁ――などとほざいて。


 よもぎの目が僕を見ている。大きく丸い瞳に映る僕の顔からはいつしか髭が消えていた。ボサボサになっていた髪も、短い長さに戻っていた。


「行こう」


 立ち上り、僕はよもぎの手を取った。


「! どこへ?」


 驚いた顔をしてよもぎは訊いてくる。


「僕らがいた世界へ。僕らはそれと向き合わなきゃならない。僕にはまた会いたい人たちがいる。書かなきゃならないことがある。それに――」


 目を丸くして見上げてくる彼女に、僕は笑いかけた。


「君のことを待っているヤツがいるんだ。毎日毎日、冴えない日々を送りながらね」


 瞬きをして、よもぎは小さく首を傾げた。


 庭を出て屋敷の正面に回る。

 この世界の入り口である黒い門――その扉に手を掛け押すが、開かない。

 鍵らしきものはついていないし、来た時はすんなり開いたのだ。しばらく挑戦したが、扉はまるで貼りつけられたかのようにビクともしなかった。


「……他の出口を探してみよう」


 よもぎを連れて、屋敷を囲む塀に沿って歩いていく。

 一周したが裏門はなく、この黒い門だけが屋敷と外とを〝繋ぐ〟唯一の出入り口であるようだ。

 もう一度押すが、やはり動かない。


「これは……」


 呆然とつぶやいた僕の横で、よもぎがそっと扉に手を触れる。

 何の抵抗もなく、よもぎの手はすっと透けて戸壁の中にめり込んだ。


「ここは常世と現世の狭間……生きている人がマレビトと出会える稀有な世界。だから、あたしはあなたに会えた」


 俯いた顔を、よもぎは僕に向けた。


「多分、あなたはここに長く居すぎたんです。〝いくはよいよいかえりはこわい〟。あなた自身がこの世界の一部となって、身も心もマヨイガに同化しつつある」


 僕は門に目をやった。

 この世界が僕と同化し、門が僕の心を映し出しているのだとしたら、僕は門を――心を閉ざしたのか。

 この場所に留まっていたい、そう願って。


「本当にここを出るんですか?」


 よもぎは僕を見つめたまま言った。

 神妙な表情は、無邪気でわかりやすかった彼女の内心を読めなくさせていた。


「現世の世界は思い通りにならないことばかりですよ。無駄な期待をして、勝手に裏切られて、傷ついて……」


 知っている。振り返れば僕の生きてきた日々はほとんどがその繰り返しだった。

 努力が報われるなんていうのは嘘だ。頑張ったって、必死になったって、どうにもならないことはある。

 そう。うんざりするくらいにそんなことはわかっている。


「なのに……そんな思いをまた味わうのに、あなたは戻るんですか?」


 答えず、僕は無言でよもぎを見下ろした。

 ……そして、口元を歪め苦笑する。


「この頃はこんなに素直だったんだな……まったく、誰のせいであんなんになっちまったんだか……」

「え?」


 訝しげにつぶやいた彼女の傍を離れると、僕は数歩、うしろに下がった。


「そういえば僕の名前、まだ言ってなかったな……」

 二、三度屈伸して門までの距離を計り、狙いを定める。

 あの夜、君が僕に対してそうしたように。


「ちょっと空けてくれる?」

「え? ……はい」


 戸惑った顔で、よもぎは門から距離を取る。


「ありがとう。――僕の名前は、御堂要っ!」


 叫びながら、僕は助走をつけて跳び上がる。


「玉林大学二年! そして、マヨイガ探索隊の一員だっ――‼」


 その勢いのまま、抱え込んだ脚で門の扉を蹴りぬいた。


「――――っ……てっ……」


 木戸はあっさり外れ、僕は地面にしたたかに尻を打ちつける。

 すぐに門を出たよもぎが近寄ってきた。


「大丈夫ですか?」

「う……うん……」

 

 慣れないことはやるものではない……。

 でも、これで借りは返した気がした。


「確かにさ、いいことなんて滅多にないし、嫌なことの方が多いけどさ……」


 土を払って立ち上りながら、僕はよもぎに言う。


「それでも……たまには楽しいこともあるから。そういう出会いとか出来事には、ちゃんと生きてないと会えないから」


 ――そう教えてくれたんだ、君が。


 告げた僕の顔をよもぎは大きく見開いた目で見つめた。

 その姿が、徐々に薄く透明になっていく。


「……お別れ、かな」

「――はい。あの門から出たら、やっぱりダメみたいですね」


 自分の身体に起きている現象に気づき、よもぎは諦めたようにつぶやいた。


「君に会えてよかった。僕にとって、大事なものが何か思い出せたよ」

「……あたしも」


 一度瞳を閉じ、それからよもぎは期待を込めた顔で僕を見上げた。


「また会えますか? ――要さん」

「うん。君がまたマヨイガに来たいと願っていれば、必ず」


 Gパンのポケットに入れていた勾玉を手で探り、彼女に差し出す。


「これ、黒曜石の勾玉。いい出会いを呼ぶ力があるってスピリチュアルの本に出てた」

「ふふっ、急に俗なこと言いますね」


 微笑んで、よもぎはそれを受け取り握りしめた。


「でも、ありがとう」

「待ってるよ。君とまた会える日を」


 もう一度、よもぎはにこりと笑って、陽射しの下の幻影であったように消えていった。


「…………………まあ、仕方ないよな……」


 一人になって僕はつぶやく。

 小さな嘘。ブラックオニキスのスピリチュアルな効用は魔除けだ。でも、それじゃあこの場に相応しくない。


「それに……ちゃんと効果はあったしな……」


 結果が過去であれ、未来であれ。

 一度だけ、僕はマヨイガの黒門を振り向き、それから自分が来た茂みの中に戻って行った。


                  ※


 木々が重なり合った茂みの中は暗く、入るとすぐに外の光を遮断した。一歩進むごとにその濃さは膨らんでゆき、夜なのか昼なのかすらわからなくなる。

 それと比例するように、マヨイガで数十年を過ごした、という感覚は薄れていった。寝起きでリアリティに富んでいた夢が、数分後にはまともに思い出せなくなっているように。

 この険しいけもの道を辿っていた感触だけがはっきりと蘇ってくる。前へ前へと、ただ足を踏み出す。

 やがて木々の間隔が広くなり、足場のならされた場所まで戻って来た。空を見上げれば夜の闇に星が輝くのが目に映る。

 ――道祖神。僕が歩いてきた道と下ってゆく道、そして山頂へと続く道。その境目に行き着く。

 石像のうしろを覗くと藁人形が隠したままに置いてあった。僕はそれを抱え上げ、道祖神の傍らにある石に腰掛ける。

 ひどく疲れていた。ここまで戻ってくるのに、残りの体力を使い果たしてしまったようだ。

 もう一度夜空を見上げ、自分のいる場所が現実であると確認し――それから僕は道祖神に背を預けて目を瞑る。

 意識はすぐに混濁の海に沈んでいった。

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