1-6
文学部第二校舎三階の302号大教室。
この時間に行われている講義は日本の文化と風習。僕が必須履修選択科目で取った授業だ。
「――で、ケっていうのは日常、ハレというのは祭日のような非日常、ケガレというのは日常生活を過ごす中で気が枯れていくことを示している。村社会の人々はケで消耗した気をハレの日に補充して、そしてまたケの日々を送っていったワケだな」
巨大なホワイトボードに、七津橋教授は黒インクのマジックで線を引く。
波線が緩やかに下がっていくのがケの日々。直線で上に戻る時点がハレの日。再び緩やかに下がっていく過程で消耗されていく現象がケガレ(気枯れ)。
「僕も地方の祭りにはよく行くんだが、離れた地域でも似たような風習や儀式を見ることがある。そういった文化は人の移動、口伝で共通の物語から派生していることが多いんだ」
雑談を交えながら、講義は和やかに進行していく。
教室のうしろから三番目、左端の席に座った僕はノートにホワイトボードの図と教授の説明を書き加える。
七津橋教授の講義は人気があるが、この授業は人類文化学科で民俗学選考の者は必須なのであぶれることはない。彼のフィールドワークで得た実経験は、本では得られない貴重な知識である。
「例えば……事八日なんかは行事に地域差があるのが特徴だな。一般的に事を仕事として十二月の八日を事納め、二月の八日を事始めとするが、一部では事を祝い事として逆にする地域もある。悪神や妖怪が家を訪れるから魔除けをするという一方で、七福神の大黒や恵比寿、山の神が訪れるから歓迎しろという話もあるんだ。この間は農作業をしてはいけなかったり、山へ入るのを禁じたりする」
眼鏡に髭面、大柄のまるで山男といった風体の教授に目を向けつつ、僕は欠伸を噛み殺す。
毎度の如く興味深い話である。――なのに、いまいち講義に身が入りきらないのは、寝不足のせいだけではなく海江田のことが頭から消えないからだ。
マヨイガ探索隊への勧誘に、現文研サークル民の心の声を聞いて傷つき今は決められないという返事をすると、海江田は不満そうだったがとりあえず帰っていった。一年生の彼女は、朝の必須科目に出なければならないのだ。
――しかし、何故僕は断らなかったのだろう?
彼女が言ったわけではないといはいえ、ヘイトをわざわざ伝えてきて心を落ち込ませたヤツの頼みを保留にすることもあるまい。
……いや、ホントのところ理由はわかっている。
認めたくはないが、傷ついたことは別として、あの妙な夢話に僕はいくらか心を掴まれたからだ。そして、これはさらに認めたくないのだが――傍目から見て海江田の容姿は結構可愛い部類であり、そのエキセントリックな性格はアレだが、知り合いとして繋がっていたいという罪深い下心が僕にあったからだ。
悲しいことだが大学内で僕に親しい友人はいない。基本的に授業を受けるのは一人で、学食でも一人……。
そもそも文学部なので男子の数が少なく、女子とは一年生時に親睦会と称してクラス全員で見に行った恋愛映画を彼女らが号泣してる中ボロクソに批判したことで縁を切られた(その結果、男子にも距離を置かれることになった)。
ゆえに学科内では孤高。ぼっち生活を余儀なくされている。
……まあ高校時代から友人は少なかったし、一人で行動するのには慣れているのだが、大人数が和気あいあいとする中にポツンと一人でいるのは、さすがにソロ活動に強い僕でも少々ツラい……。
初っ端クラス内での交友関係を壊して危機感を覚え、色々思うトコロはあったものの入会した現文研では大学内の知人を確保しておくため適当に話を合わせてきたが、先日それも切れてしまったし、彼等の腹の内を知った以上、修復する気もない。
つまり今の僕は大学内で軽口を叩く相手もいない、かなりヤバい危機的状況に陥っているのだ。
だからなのか、下心と孤独感のハイブリット……それが僕の意志を弱らせ、曖昧な返事にしてしまったのか……。
「――と、時間だね。今日はここまで」
悶々と自問する僕を尻目に教室内に響くチャイムを聞いて、七津橋教授はホワイトボードを消した。
学生たちは出席カードを出しに前へ行き、人の数が少なくなったところで僕も立ち上がる。
益体のない思考はやめだ。とりあえず考えるべきは今後の大学での身の振り方、そして新作小説を書くための材料探しだ。
気持ち切り替え出席カードを出して教室をあとにすると、僕は図書館へ向かった。
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