3-1


 暗闇――それは幼い日の俺の居場所だった。

 泣き叫んでも、襖を叩き続けても、決して開くことはない。いつしか俺は諦めて、闇と同化し、恐怖を抑えることに気持ちを向けた。

 闇と自分が別だと思うから怖いのだ。その境目がないと思えれば、闇は俺の身体の延長でしかない。

 そう思いたくて、思い込もうとして――しかし、僅かな隙間から射し込む光がそれを許さなかった。

 光によって映し出される線が、俺という存在を浮かび上がらせ、包み込む闇が、心を蝕んでくる……。

 恐怖で頭がおかしくなりそうになって、自分と闇以外の〝誰か〟を求めた。

 誰でもいい〝誰か〟。その誰かがいてくれれば、闇だけが俺の相手ではない。相変わらず闇がそこにあろうとも、恐怖だけに縛られることはなくなる。


 そう願い続けて、そう念じ続けて――そして、彼女は現れた。


 何もない闇から浮かび上がるように。空気を窄めて形作られたように。


「――君、いっつも一人だね。ヒマならさ、わたしの相手してよ?」


 驚くより先に縋るよう頷いた俺に、彼女はにっこりと笑い、軽く頭を撫でてくれた。


「いつかきっといいこともある。……だから、今は耐えて」


 それは耐えかねた俺の心が生み出した幻か、はたまた願いの強さゆえに見た夢だったのかもしれない。

 だが、俺は彼女が家を去るまでの数年間、確かに言葉を交わしたのだ――。


                  ※         


『――あ、もしもし要っち? うんあたし。今日四時から空いてる? ……そっか! じゃあ運動部の部活棟に集合ね。茜ちんもその時間ならヘーキらしいから。……え? 何の用かって? むふふふ、それは来てからのお楽しみというモノだよっ!』


                  ※


 六限目の授業を終えて、僕は文学部棟方面から工学部の校舎へと続く松陰橋を渡っていた。

 大学の敷地内に作られたこの橋の下は私鉄が通過し、山を切り崩して開けたトンネルの中へと続く。もはや見慣れてしまったが、キャンパスの中を横断する鉄道という風景も中々オツなものだ。

 橋を渡り終えると工学部棟へ続く道を右へ曲がり、坂道を下ってしばらく歩くと、非常にわかりづらい脇道が途中にあって、運動部部活棟はその先にある。

 道なりはけもの道。山中のような歩きづらさで、ようやく辿り着いた部活棟は木々や草むらが生い茂る中に聳えている。


「あ、こっちこっち!」


 空手部の部室はどこなのか……と、ボロい棟を前に僕がぼんやり考えていると、建物の裏手の方から海江田と野美さんが顔を出した。


「あ、どうも……」

「どうも~一昨日は無事に帰れた~?」


 相変わらずの穏やかな雰囲気で、野美さんはニコニコ笑って声をかけてくる。


「はあ、どうにか……」

「えらい酔ってたからなぁ、要くん」

「ええ、あの……この間は失礼なこと言ってしまって、すみません……」

「ええってば。気にしてへんわ」


 飄々と言うが、この人の本心は読めないところがある。

 少なくとも、ただのんびりとしているだけの人でないことは確かだ。


「で、今日はいったい?」

「よもぎちゃんがな、貸してほしいものがある言うんで来てもらったんや」

「はあ……僕も?」


 首を傾げ、僕は海江田の方を見る。


「うん、要っちにやってもらうわけだし。サイズ合うかも試しとかないと」


 当然のように海江田は告げてきた。


「いや、何だよサイズって? ……僕が何か着るのか?」

「まあそうなるよねぇ」


 嫌な予感を感じて訊いた僕に、海江田は不敵な笑みを浮かべて続けた。


「今回は要っちの働きが重要になるからねぇ。気合入れないとダメだよ? ――マヨイガ探索隊での、初仕事なんだからっ」


                  ※


 部室棟裏、各部の備品などがしまってある用具倉庫に来る。

 野美さんが鍵を開けて蛍光灯を点けると、乱雑に置かれた物の山が広がっていた。


「みんな結構適当に置いとるからなぁ~。でも、一応区分けはできとるんよ」


 八畳ほどの倉庫に入り、野美さんは左端のスペースに行くと、そこに置かれた大きな布袋を開けて中を覗いた。

 袋には、太い黒マジックで「空手部」と書かれている。


「ん~と…………あ、あったあった。はい、これや」


 野美さんが取り出したのは、頭に白い三角布をつけた青白い男のゴムマスクと白装束だった。


「これは……?」

「秋吉くんが、肝試しの時に着てたやつ」


 ニコニコと笑って答える野美さんを見て、それから僕は海江田に顔を向ける。


「――うん。つまりそういうことだよっ!」

「いや、どういうことだよっ!」


 うすうす勘づいてはいるものの、それでも僕は拒絶の意も込めて叫んだ。


「鈍いなぁ~要っちぃ。ようは要っちにそれを着てもらって、秋吉くんを驚かそうってコト」


 ウィンクして、ノリノリな調子で言う海江田。


「明日、秋吉くんが道場閉める番やからなぁ~。最後になると思うし、他の部の子も帰ったあとやろうから、驚かすにはちょうどいいと思うでぇ」


 両手を幽霊のように垂れ下げて、野美さんも便乗してくる。


「いやいやいやっ! 何で僕がそんなことしなくちゃいけないんだよっ!?」

「秋吉くんが幽霊とか妖怪に弱いって証拠を握って、それをネタに脅してマヨイガ探索隊に入ってもらおうって魂胆よ。前にも言ったじゃん」

「お前……本気か?」


 ケロリとした顔で言う海江田に、僕は非難を込めた視線を送る。

 悪ノリでも、さすがにそれは趣味が悪い。流されやすい僕でも躊躇う動機だ。


「そんな怖い顔しないでよ。――ほら、ベタだけど、夜これに会ったらたまげるでしょ?」


 野美さんからマスクを受け取り、海江田は僕に被せてくる。


「くっ――僕は反対だぞっ! そんな人の弱みに付け込むような真似っ!」

「真面目やねぇ。要くんは」


 暢気な声で言う野美さん。

 マスクを外し、僕は二人を睨んだ。


「……海江田。お前本当にそんなことするつもりなのか? いくら犀川に入ってほしいからって……それでもしあいつが入ってくれても、良い関係は築けないぞ?」

「んー? やるよ、あたしは」


 真正面から僕を見つめ、海江田は怯むことなく答えた。


「あたし、確信してんだよ。それが必ず秋吉くんのためにもなるってね」


 憚りなく口にした言葉は謎の自信に満ちていて――僕は一瞬怒りを忘れ、困惑の眼差しを海江田に向けた。

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