2-10
「――そりゃ犀川は真面目過ぎて融通の利かないところもあるでしょうが、あいつは誰に対しても平等ですよっ! それを弱味握って笑いものにするなんて、趣味悪いですよっ!!」
三杯目の水割りを空けたところで、気づけば僕は堰を切ったように喋り出していた。
「あははー。うーん、そやねぇ……。わたしも悪乗りしすぎたかな?」
野美さんは一瞬キョトンとしたあと、すぐ牧歌的に笑ってそんなことをぬかす。
「そうですよっ! だいたい大抵の男ならば野美さんみたいな女性に迫られれば抗えないものですよっ! 野美さんも、実はそれをわかってるんじゃないですか? わかった上で犀川の純情を――」
「ちょいちょい、要っちブレーキ」
海江田が僕の顔を掌で押さえ、僕はぐむっと口ごもった。
「……ま、君の言うことも一理あるけど」
新しいロックを作りながら南条さんが言う。
「それで茜を怒っても仕方ないでしょ。この娘も、部活仲間に頼まれてやっただけなんだから」
「……っ! でも……」
言いかけて、すんでのところで踏みとどまる。
――それは野美さんが、犀川が自分を好きだとわかっててやったんじゃないですか?
すでに付き合ってる人がいる野美さんにとって、その駆け引きは単なる悪ふざけだ。僕みたいな年齢=彼女いない歴の男から言わせれば、ひどくタチの悪い行為に思える。
……それとも、陽キャじゃそれが普通のノリなのか?
ちょっと恋愛感情を弄ばれただけで傷つく、僕のような陰キャが弱いだけなのか?
「そだよぉ、要っち。感情に任せて女子を責めるのはモテないぞー」
人の心を読んだように海江田が囁く。
僕は焼酎のボトルを手元に寄せ、自分のグラスに注いだ。
「……どうせ僕はモテないよ」
「あははー。ええよ、わたしは気にせーへんし」
ちらり、と隣を見ると野美さんは相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。気分を害した様子もない。
「――でも、秋吉くんにも君みたいな友達がおったんやねぇ~。ちょっと意外やったけど、安心したわぁ」
暢気な口調で言われたその言葉に、僕は気まずく視線を逸らした。
……よくわからない。この人は、本当によくわからない。
でも――もしかしたら僕が思う以上に懐が深い人ではないのだろうか、とも考えたりした。
※
「…………っ」
夢――ではなく、昨夜の記憶から醒めると自室の床で寝ていた。
雑にかけられたタオルケットをのけて、周囲を見回す。
「つぅ……」
また二日酔い。壁に掛けた時計は午前八時半を指している。
ちゃぶ台の上にあるのはビールの缶やつまみらしき乾物。海江田のヤツ、ここに来たあとまた呑んだのか……。
ため息をつき、立ち上がって顔を洗いに洗面所へ向かう。
――と、そこでベッドの方に目がいった。
「……あ」
心地よさそうに、寝息を立てる海江田がいた。
身体を左側に倒し、猫のように丸くなっている。
「…………」
若干心音が早くなるのを感じながら、僕は足音を殺して近づき、寝顔を覗く。
大人しくなっているこいつを改めて見ると、やはり顔立ちは悪くない。年齢のわりに幼く見えて野美さんのような包容力はないが、少女のようなあどけなさが残る。
「……少しは警戒しろよ」
男の部屋のベッドでこうもスヤスヤと眠れるものなのか。
それとも、僕が舐められているのか……。
どちらにしろ何をするわけでもないし、その度胸もない。
僕は剥いだタオルケットを彼女にかけて、洗面台の方へ向かった。
※
「――好き勝手なこと言ったのは謝るよ。確かに感情的になってた」
「んーん、あたしはよかったと思うよ」
記憶が途切れる直前、夜道でそんな会話を海江田とした。
「でも……君も南条さんも、野美さん側だったじゃないか」
「あの場は響さんが立ててくれた場だしさ、ああ言うしかなかったんだよ。あたしは要っち、間違ってないと思う」
言って、海江田はアスファルトにある小石を蹴った。
「茜ちん、悪いよね。秋吉くんの気持ちわかってて弄ぶようなことしてさ」
「………………」
やっぱり、コイツも気づいていたのか。
そりゃ察しがいいとは言えない僕が気づくことだ。抜け目のない海江田が、わかっていないはずがない。
「響さんもそう思ってるよ」
スマホを取り出し、海江田は俯きがちな僕にその画面を向けた。
〝茜が友達にひどいことしちゃってごめんって、あの子に言っておいて〟
響、と名前が表示されたヘルメットを被る猫のアイコンのLINEメッセージ欄に、そう送信されている。
「――ま、女の関係ってのはイロイロ複雑でね。それぞれ思うトコロがあっても、直球ぶつけ合うのは難しいのさ」
含みを持たせた口調ではなく、本当に面倒くさそうにつぶやいて、海江田は夜空を見上げた。
「……そうか」
その仕草が妙に大人っぽく見えて……僕は、何だか海江田との間にひどく距離が開いた気がして、目を背けることしかできなかった。
※
洗面台で顔を洗って部屋に戻る。ホントはシャワーを浴びたいところだが、それは海江田が起きて帰ったあとにしよう。
冷蔵庫から、買い置きしておいたペットボトルのポカリスエットを出して口をつける。
――それからまた、ベッドに近づき見下ろした。
海江田の体勢は変わっていない。僕がかけたタオルケットに包まっている。
クルクルと忙しなく動く大きな瞳は、今は一本の線となり、寝息で微かに胸が上下している。
「………………」
寝ている姿は、かわいい、と言っていい。
僕よりも年上で二十歳を超えている。しかし、無防備で幼さの残る表情は一つ上の女性には見えない。
ついつい見惚れて――僕は、無意識に顔を近づけた。
「……いたずらする気か?」
「!」
唐突に一本の線が開かれ、海江田の瞳が僕を映した。
「なにー? 草食系装っておいて案外やらしいねぇ、要っちぃ」
「……ち、違うっ!」
あとずさりして、僕は慌てて否定する。
「ただ、起こした方がいいんじゃないかって……講義あるかもしれないしっ……」
「ふふふふっ。言い訳しなくても、要っちがそういうキャラじゃないことはわかってるよ」
いたずらっぽい口調で言って、海江田は大きく欠伸した。
「あたし三限からだから、もう少し寝るね。要っちは?」
「僕も……同じだ」
「そ。じゃあ一緒に出よう」
もぞもぞと動き、身体の向きを逆にする。
「……あ、シャワー貸してもらったから。要っちもあたしに遠慮しないでいいよ」
「あ、ああ……」
言って、また寝息を立てはじめる。恐ろしく寝つきのいいヤツ。
……ってか、僕んちのシャワーなんだから、僕が遠慮する道理はないだろ……。
釈然としないモノを感じながらも、それでも先に海江田が使ったと聞いて若干興奮している気持ちを否定できず――僕は不可解な葛藤に苛まれながら、そそくさとバスルームに入っていった。
※
海江田と一緒に大学へ行き、学部棟で別れて講義を受け、食堂ハナマキにて昼食を摂る。
それから僕は学生会館事務所を訪れ、入り口付近の掲示に張り出されたバイト募集を眺めていた。
仕事の内容は個人家庭教師や塾の採点補助。期待はしていなかったが、大した時給でなく関心も薄い。
……やっぱり、学内募集のバイトはイマイチか……。
そもそも学内で募集しているものはボランティア活動関係の方が圧倒的に多い。〝時間だけは無駄に余っている学生ども、経験積ませる代わりに無償で奉仕しろ!〟という、大学側からの強いメッセージを感じる。
まあ……我ながらしょうもない日々を過ごしている自覚はあるから、僕の場合反論の余地もないのだが。
「はあ……」
重いため息をつき視線を掲示物から外すと、すぐ隣、同じようにバイト募集を見ている女学生がいることに気づいた。
キャラクターもののフード付きパーカー、下はそれに合わせた淡い紫のミニスカート。サブカル風の、ちょっと奇抜なファッションセス。
そして肩にかけたあのヘッドフォンは――。
「……君は」
思わず声を出すと、隣で熱心にバイト募集を読んでいた少女は驚いたようにこちらを向いた。
「――っ! あんたは……」
内巻きのクセっ毛に、リスのような瞳。
〝見鬼〟の少女――実里沢玲実がそこにいた。
「あっ」
実里沢は僕を睨みつけると、すぐに回れ右をしてスタスタと早足で去っていく。
「ちょ、ちょっと待って……!」
慌ててそのあとを追い、僕は学生会館を出た。
「付いてくるなっ! あんたに用はないっ!!」
前を向いたまま、実里沢はにべもなく怒鳴りつけてくる。
「いや違うんだっ! あの時の、お礼をまだ言ってなかったから……!」
僕が叫ぶと、実里沢はぴたりと立ち止まった。
少し距離を空けて、僕も足を止める。
「……礼?」
振り返り、実里沢は僕の顔を測るように見つめた。
「そう……図書館で、助けてくれた時の」
「………………」
表情の険しさが、少しだけ和らいだ――気がした。
「ありがとう。君が教えてくれなかったら危なかった」
「別に。つい言っちゃっただけだし……」
視線を外して素っ気なく言う。
それでも、声から刺々しさは消えていた。
「それから海江田のこと、謝るよ。あいつも悪気があって君に絡んでるわけじゃないんだ。……いや、そりゃあ自分の都合が大きいんだろうけど……多分、君のこともいくらかは本気で心配している、と思うから……」
「それはあんたが謝ることじゃないだろ」
実里沢は僕に視線を戻した。
微かに色のある澄んだ瞳。普通の人が見えないものや、先に起こることを見抜く見鬼の目。
――彼女から見た僕には、今何が〝見えて〟いるのだろうか。
「わかってるよ。あんたや、あの娘がそんなに悪いヤツじゃないって……」
しばらく僕を見つめて、それからふっと力を抜いて、実里沢はつぶやいた。
「――でも、だからこそ言っておく。あんたらがどう考えているかは知らないけど、ウチに関わるとロクな目に合わないよ」
どこか投げやりに、実里沢は言った。
「ウチの力は半端だし、印象だけで具体的なことはわからない……。いたずらに頼りにされても、不安を煽るだけだ」
それは拒絶というよりも、諦めているような言い草だった。
「仲良くなりかけた人を傷つけたり、傷つけられたりもした。だから……もう嫌なんだ。誰かを憎むのも、憎まれるのも……」
耐えかねたように、実里沢は唇を噛み視線を伏せた。
押し殺した声。後悔を感じさせる響き。救おうとして、力になろうとして、余計なことをしてしまった。自分に異形の力が備わっていたばかりに――。
でも……本当にそんな能力があるのだろうか。
この世非ざるモノを見て、未来の厄事を予見する力。そんな能力を持つ人間が、本当に実在するのだろうか。
「何が見えてるんだ……君の目には……?」
思わず口から出た言葉に、実里沢は答えず、ただ寂しそうに首を振った。
そして視線を切り、その場から速足で去って行く。
僕は、その背中を見送ることしかできなかった――。
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