1ー2

 暗点、そして覚醒。

 闇の中に沈んでいた意識は穏やかに射し込む陽光の気配で揺り起こされる。

 カーテンの間、差し込む陽射しは初夏のものだ。もうそんな季節になっていた。時間の流れは緩やかにだが確実に進み、僕がこうしている間にも止まることなく無為に消費され続けている。


 ……いけない。こんなことではいけない。


 うまくいかないことばかりだからといって、いじけているヒマはないのだ。

 僕は、この残された短いモラトリアム期間をもってして、僕ができる〝何か〟を成し遂げなければならないのだ。

 僕という存在がこの世界にいる意味――証。それが確かにあったと示すためために。


「――そうなのだっ!」


 がばっ! と身を起こした瞬間額に激痛を覚え、僕は両手をあてがい身体をくの字に折る。


「ふぉぉぉぉぉぉぉ……?」


 ……これは、湿布?


 額に触れた感触で察する。

 見回してみればそこは見慣れた自分の部屋。1K風呂トイレ別の鉄筋コンクリート・マンション。


 ……ええと、何故僕は自宅に?


 混濁気味の記憶。覚醒したばかりで認知能力も曖昧。一度大きく深呼吸して、自分がどうやって今に至ったのかを遡る。

 文芸サークルで喧嘩し、新作の小説が一次選考落ち、バイト先のラーメン屋で叱られた最悪の一日。その帰り道でやけくそになって、ビールを呑みながらマンションの前まで来て……。


「――あの女はっ!?」

「ただいまぁ~」


 そこまでの経緯を思い返し、意識が飛ぶ直前に辿り着いたトコロで僕が叫び声を上げると、それを待っていたかのようにキッチン先のドアが開いた。


「おおっ、お目覚めだねぇ」


 ゆるゆるとしたつぶやきと共に入ってきたのは、僕に飛び蹴りを食らわせたあの女だった。

 右手にはコンビニの袋を持ち、僕の姿を見止めたところでキャップのつばを上げてにぃと笑う。


「気ぃ失っちゃうもんだからビビったよ。倒れた時頭打ってたらヤバいかなーって思ったけどコブもできてなかったし。気持ちよさそうに寝息立ててたから、ここまで運んであげたのさ」


 大変だったかんね、と女は恩着せがましく言う。

 女……というか、少女に近いか。着ているものは黒のパーカーにベージュのハーフパンツ。ぱっと見少年のような恰好で、セミロングの髪型に気づかなければすぐに性別を見抜けない。


「まあ気にしないでいーよ。あたし心広いから。お礼として朝ご飯くらいは奢ってもらうけど」


 コンビニ袋を顔の横に上げ、またにぃと笑う。


「……そいつはどうも……」


 あまりにも堂々と言う女を見ていると、何か僕の記憶に抜け落ちている部分があってこちらに非があるような気がしてくるが――違う。

 この女は、まず出会いがしらに僕に飛び蹴りを食らわせ、そして状況から察するに気絶した僕のポケットを漁りマンションの鍵を見つけて、部屋に運びこんだのちサイフも抜き取り、その僕の金を使って買い物までしてきやがったのだ。


「じゃ、これ返すわ」


 起き抜けの脳みそをフル回転させる僕の前で、女はさっさと玄関を上がり、部屋のちゃぶ台の上にサイフと鍵を投げおいた。

 それからよっこいしょと腰を落ち着け、コンビニ袋をガサゴソと探り、サンドイッチやらおにぎりやらを取り出す。


「要っち何食べる? 遠慮するこたぁないよ、何しろ君の金なんだから」


 いけしゃしゃあと抜かし、女はレッドブルのプルトップを引き口をつける。


「最近ハマってるんだよねぇ。……ところでさ、海外のレッドブルと日本のって成分違うらしいよ。日本のはタウリンの代わりにアルギニンが入ってて、清涼飲料水扱いなんだって」

「へぇ、そうなんですか……――いや、そんなことじゃなくてっ!」


 思わず素直に感心しそうになって、頭を振って僕は我に返る。

 いけない、相手のペースに乗せられては! が、もはや何からツッコめばいいのかも整理がつかない!! 

 ……なので、まことに不本意ながら僕は理性的であることを諦めて、感情の赴くまま口を動かすことにした。


「――まず第一にっ、君は何者なんだっ!? 人んち勝手に入って名前くらい名乗れっ!!」

「最初に知りたいのがあたしの名前? ずいぶんせっかちになったもんだねぇ、要っち」


 垂れ目がちな目で僕を見つめ、知ったような口ぶりで女はニヤニヤと笑う。

 その仕草には妙に蠱惑的な雰囲気があり、惹きつけられる前に僕は視線を外した。


 ……いや、まあそれなりに可愛くはある。


 それ以上に不敵な部分が多すぎるが。


「でもまあいいや、ここは〝君んち〟だし。――初めて会ったなら、名乗るくらいは礼儀だよね」


 内心の動揺を押し殺し、僕は女に顔を向ける。

 女はキャップを外してちゃぶ台に置くと、ならすように前髪を指ですいてみせた。


「どーも、あたし海江田かいえだよもぎ。文学部人類文化学科の一年。つまり、要っちの後輩になるね」


 後輩というには先輩を敬う素振りなど一切見せず、初対面にしては馴れ馴れしすぎる態度でその女――海江田よもぎは、名を告げたのだった。 

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