雪は、コンラートの墓にも等しく降り積もっていた。手で雪を掻き分けて、墓石に刻まれた名前と生没年──彼が地上にいた年月の短さを確かめて、エリーゼは痛ましげに溜息を吐いた。携えてきた白薔薇を置いてなお、彼女はなかなか立ち上がろうとしない。細い身体が冷えるのを恐れて、ヴォルフもエリーゼの傍らに跪き、寒風から守るように寄り添った。十分に厚着をしてはいても、妻の身体の細さは彼が誰より知っているから心配だった。


「私……葬儀の時はお花を捧げることができなかったんです」

「そうだったのか」


 エリーゼがコンラートを悼むことはないはずだ。婚約といっても、あの青年がエリーゼの美貌と弱い立場に目をつけただけで、彼女が望んだことではなかったという。そもそもすでに地上にいない相手で、ヴォルフも祈りを捧げるためにこの場にいるのだ。なのに、もの言わぬ墓石に妻の視線が注がれているのを見ると、非常に勝手なことに胸が騒ぐのを抑えられない。


 ヴォルフの嫉妬めいた感情には気付いていないのか、エリーゼは目を伏せて雪に紛れそうな白薔薇を見つめ、ひとりごとのように呟いた。


「あの日、大奥様──ヒルシェンホルン夫人に貴方との結婚を命じられたの。驚いたし、心細くて怖くて怖くて……こんな白い薔薇を握りしめていたはずなのに、気付いたらどこかへ行ってしまっていた……」

「あの女性も心無いことをするものだ」


 それこそ氷の彫像のような、冷たく厳しい表情の老婦人を思い浮かべてヴォルフは顔を顰めた。かの貴婦人は、宮廷などで彼にすれ違う時も侮蔑をあからさまにした高慢な態度で接してきたものだ。だが、それは高貴な血を引く矜持ゆえに卑しい成り上がり者が目障りで仕方ないのだろうとヴォルフは解釈していた。まさか同じ一族の、それも寄る辺がないか弱い少女に対しても無慈悲な振る舞いをしていたとは思わなかった。さすがの女傑も婚約者を亡くした娘は哀れむだろうと思って、だからこそ彼は最初、エリーゼに憎まれていると信じたのだ。ヒルシェンホルン夫人は、一族の娘の復讐を叶えてやろうとしているのだろう、と。


 何も知らされずに残虐だと評判の男に嫁がされることになって、エリーゼはさぞ怯え混乱しただろう。出会う前の彼女の心中を慮って、かける言葉が見つからないヴォルフを見上げて──けれどエリーゼは晴れやかに笑う。


「でも、そのお陰で貴方に会えたんです」


 冬のただ中に大輪の花が咲いたかのような美しい笑顔だった。ヴォルフが息を呑んで見蕩れる間に、エリーゼは衣擦れの音とともに立ち上がり、彼に手を差し伸べる。妻の眼差しは、今や彼だけに向けられていた。


「これは、あの日のやり直しというだけです。亡くなった方にはお悔やみと、さよならを言いました。だからもう終わり……!」

「エリーゼ……?」


 ヴォルフが彼女の手を取ると、細い指が強く握り返してきた。もちろん彼を助け起こすには、妻はあまりに非力すぎる。だから指の力は彼女の方こそヴォルフに縋ろうとしているようで──彼が慌てて立ち上がると、エリーゼは彼の胸に頭を寄せてきた。


「貴方以外の方のことを考えてしまって、ごめんなさい。トラウシルト家に借りを作ってしまったのも……でも、これ限りですから」

「ああ……」


 どこか思い詰めた妻の声に、ヴォルフは彼女の心中を察した。気にするな、と伝えるために背に腕を回すと、細い身体はすっぽりと彼に包まれるようになった。


「この程度で貸しを作ったなどと思われて堪るものか」


 名のある貴族の家は、一族の者の眠りが妨げられぬよう、墓地を厳格に管理しているものだ。もちろんトラウシルト家も例外ではなく、ヴォルフたちが訪ねるのにも許可を得る必要があった。恐らく、以前ならトラウシルト家の当主は彼の打診を鼻で笑って断っていたはずだ。神聖な墓地にをうろつかせる訳にはいかない、とか言って。何ならヒルシェンホルン夫人などは今まさにそのようなことを言って一族の者に当たっているかもしれない。

 それでも今回の墓参があっさりと叶えられたのは、状況が変わったのを先方もよく知っているからだろう。王女の暗殺を企み、王宮内で火薬を使った罪は重い。首謀者として追及されているマクシミリアン王子の威光は褪せ、逆にアポロニア王女は政治の場でも社交界でも輝かしく存在感を増している。王子に与していたトラウシルト家も、この政変では良からぬ影響を受けている。だから王子の失脚に巻き込まれまいと、「一族の恥」であるところのエリーゼや、「卑しい成り上がり者」であるところのヴォルフに恩を売ることにしたらしい。


(まあ、期待するのは勝手だがな)


 エリーゼが目を伏せているのを良いことに、ヴォルフは口元に獰猛な笑みを浮かべた。飢えたけだもので大いに結構、彼自身のことならともかく、妻を長年にわたって虐げ貶めてきた者たちを、多少のことで許す気にはなれなかった。


「それに、俺は貴女を信じている。ずっと一緒にいてくれるのだろう?」


 埒もない胸騒ぎを覚えたことは棚に上げて、ヴォルフは妻の耳元に囁いた。いや、彼がエリーゼを信じているのは紛うことなき真実だ。ただ──彼女のか弱さや儚さを見ると不安になってしまうだけで。我が身を顧みず炎の中に彼を迎えに来てくれた妻の想いを、どうして疑うことができるだろう。


「はい。もちろん……!」


 彼を見上げて微笑むエリーゼの頬には一点のきずもない。例の夜の炎が彼女に──少なくとも、すぐに見える範囲には──痕を残さなかったことに改めて安堵しながら、ヴォルフは妻を抱擁した。妻を守らなければ、と。もう何度となく誓った想いを新たにしたのだ。


「俺もに言いたいことがある。少し待っていてもらえるか……?」

「ええ」


 いったん妻から手を離し、再びコンラートの墓石の前に跪き──ヴォルフは、瞑目して深く頭を垂れた。彼の部下であり、犠牲者であり、ある意味では恋敵だった青年を思い浮かべ、声には出さずに語りかける。コンラートが散った戦場の、煙やすすや血の臭いを思い出せば、肌がちりちりとあぶられるような感覚が蘇る。炎に焼かれることの苦痛は、彼自身もよく知っている。生きながら燃え溶かされる絶望と恐怖の中で、コンラートはきっとヴォルフに呪詛を吐いたに違いないのだ。


 ならば、この雪の冷たさはあの青年にとっては慰めになっているだろうか。ヴォルフが墓石に掌をあてると、凍てついた石から伝わる冷気もまた肌をくような鋭さだった。だが──甘んじて、受ける。


(許せとは言わない。この先何をしようとも、償えることではないのは分かっている)


 恨むなら恨んで良い。きっと、彼もいずれは同じ地獄に堕ちるだろう。だが、それまでは──


(俺は、エリーゼと生きる。彼女を幸せにする)


 愛する妻を、怪物の生贄などと呼ばせたりはしない。国を支える名将の妻である名誉でさえ、まだ十分ではない。夫を愛し、愛されて──できれば、子供も育んで。そうして、生涯の最期の瞬間まで幸せで満ち足りているように。これまでの不遇を埋め合わせるように、彼女の優しさと強さに相応しいように。だからヴォルフはまだ、罰を受けることはできない。


「──待たせたな。冷えてしまっただろうに」

「貴方こそ……!」


 祈り、あるいは言い訳を終えてヴォルフが立ち上がると、エリーゼはすぐに彼の手を握って来た。雪の積もった墓石に触れ続けて青褪めてしまった指先を擦り、彼女の手の中で温めてくれる。死者に向き合った彼の心を、この世に連れ戻してくれる。


「もう、お気は済みましたか……?」

「ああ、帰ろう。貴女のお茶が飲みたいな」


 来た時と同じように、腕を差し出すと、エリーゼは嬉しそうに彼の横に収まった。夫婦としてあるべき立ち位置につく、という──たったそれだけのことで、彼女はこんなにも蕩けるような笑顔を見せてくれるのだ。


「昨日のお菓子も美味しくなった頃でしょう。ミアも待ちかねていると思うわ」

「それは急がないと、な?」


 に帰るのが楽しみだ、というごくささやかな感情も、ヴォルフにとっては長いこと手の届かない贅沢だった。妻と並んで歩くのも幸せなら、家で共に寛ぐのも至福の時で──かといって心臓が止まっても良い、などと言うとまた妻に叱られてしまうのだが。

 雪に足跡を残しながら、ふたりは帰路に就いた。コンラートの墓石には背を向けて、もう二度と振り返ることはない。

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