王女の野心

「え……?」


 ミアが何を言っているのか、最初、エリーゼには理解できなかった。ただ、彼女の耳に、婚礼の日に漏れ聞こえた貴族たちの囁きが蘇っていた。王女殿下は感謝などしていないだろう、と。ギルベルタにはギルベルタの思惑があったように、王女にも考えることがあるのは当然かもしれない。何も考えず従うだけだったエリーゼこそが、おかしいだけで。


(王女様が将軍を利用して……何をなさるの……?)


 最初は呆然とするだけだったエリーゼも、ミアの言葉の意味を理解するにつれて、じわじわと不安が湧き上がってくる。屋敷を出されるのは悲しかったけれど、それでも将軍のためになることなのだろうと、何となく信じていたというのに。エリーゼでは役に立てないのだから仕方ない、と。でも、ギルベルタだけでなく、王女でさえも何かしらの企みを抱いているとしたら──それなら、将軍はどうなってしまうのだろう。あの方は、エリーゼなどのために王女に近しい人と連絡を取ると言っていた。エリーゼを妻として迎え入れたことといい、あの方は自身への企みについて恐ろしくなるほど無頓着だとしか思えなかった。


 エリーゼの顔色が変わるのを見て取ったのか、ミアが軽く身を乗り出した。相変わらず辺りを憚るような声の調子ではあるけれど、はっきりと憤りが篭っているのが分かる。


「だって、偉い方が何の理由もなく旦那様を庇ってくださるはず、ないじゃないですか。王女様は、女王様になりたくて、王太子様と争うおつもりだって──それで、旦那様を味方につけたいとお考えとか」

「王太子殿下は王女殿下のことをご心配なさっていたのに……」


 一度だけ会った王太子の姿を思い浮かべながら、エリーゼは呆然と呟いた。あの方は、妹姫のために心を砕いていたようだったのに。いや、でも、マクシミリアン王子はこうも言っていた。


『誰に何を吹き込まれたのか、猛獣使いの真似事をしたがっているのは困ったものだ』


 あの時は、意味が分からなかった。だから考えないようにして記憶の底に封じ込めようとしていた。でも、今になって思い返してみると、ミアが言っていることと符合している、かもしれない。猛獣使いとは、救国の将軍を手駒にして王位を狙うということの喩えなのかも。それなら、王女の庇護を得たところでヴォルフリート将軍に向けられる敵意はかえって増すばかり。何より──将軍が引き合わせてくれるというは、王女に野心を囁いた人かもしれないのだ。


(あの時、もっとちゃんと聞いていれば……!)


 何もかもに怯えて、口を開くことはおろか、考えることさえ諦めきっていた自分自身が悔やまれてならなかった。何を信じれば良いのか、彼女はどうすれば良いのか。茶器に触れても、温もりによって心が安らぐことなどなかった。エリーゼの指先も冷え切って、震える。琥珀色の茶が波立って揺れるのは、彼女の心を示しているようだった。


「本当なら、怖い方です。王女様って。それに、たとえそうじゃなくても、王女様は旦那様とお菓子を召し上がったりなさらないと思います」

「……そうかしら?」

「そうですよ。だって旦那様は、罰を受けたがっているんだから。王女様と結婚したって、それは変わらない……!」

「罰、だなんて……!」


 罰、という単語がエリーゼの頭を殴った。衝撃によって、目を覚まさせられるかのよう。ミアは、将軍の思いを確かに言い当てているのだろう。残虐な行為は、たとえ命令に従っただけだとしても当然の報いを受けるべきだと、あの方は言っていた。でも──


「旦那様が罰されるようなことは何もないと、私は思います。ミア、貴女もそうではないの……!?」


 ミアが将軍に仕えるようになった経緯を、エリーゼは既に聞いている。その程度の雑談は、できるようになっている。ミアの故郷も、戦場となって跡形も残らず焼けてしまった。彼女の親も、係累も。焼け跡で泣いていたミアも、将軍に保護されなければ炎か気の荒い兵か、そうでなくても餓えや野獣によって命を落としていただろう。将軍は、ミアの命を救っているのだ。


 婚礼の日に、花束をくれた子供たちもいる。あの夜の花は、押し花の栞に形を変えて、まだ将軍の書斎の彩となっている。それを見るたびに、エリーゼは将軍の優しさを確かめられるような気がするのだ。世間で言われる恐ろしい噂も、たとえ真実だとしても、将軍の本意ではないと思う。あの方と少しでも接すれば分かる。貧しい子供のために膝を突き、エリーゼにも辛抱強く礼儀正しく接してくれるあの方が、愉しんで人を殺めるはずがない。


 確信できるからこそ、疑問が深まるのだ。なぜあの方は自ら破滅を望むのか、と。


「ミア……旦那様は、どうして……?」


 答えを求めて見つめたのに、ミアは力なく首を振った。


「私が言っても、旦那様は信じてくださらないんです。助けようとして助けたんじゃないから、って。偶然そうなっただけだから、って」


 ならば、王女と結婚したとしても、その栄光を持ってしても将軍の罪の意識を拭うことはできないのだ。それが、エリーゼが選ばれた理由でもあるのだろう。名誉よりも復讐の刃を。それが、あの方の望みなのだ。


「でも──では、どうすれば良いの……?」

「分かりません」

「ミア……!」


 エリーゼにしては珍しいほどの声を上げても、ミアの態度は変わらなかった。悲しげに、諦めたような表情で俯くだけで。きっと、エリーゼを傍から見たらこうなるのだろう、という姿だった。


「私には分からないんです。旦那様のお気持ちが変わるかどうか、なんて。でも……少なくとも、旦那様が女性をお屋敷に連れてきたことはないし。奥様なら、もしかしたら……」


 もしかしたら、何だというのか。ミアだって、はっきりと思い描いて口にした訳ではないのだろう。何を言われ、何を期待されたのだとしても、どうせエリーゼには荷が重いのだ。彼女にできることがあるはずはない。


(でも、王女様もそれは同じ、なの……?)


 ふと心に浮かんだことに、エリーゼは慄いた。王女と自身を引き比べること、自分に何かできるのではないかと思い上がること。いずれも、これまでならば考えの端に上らせるだけでも恐ろしいことだった。誰かに叱責されるのを待たずに、押し殺してなかったものとして心の底に隠そうとするようなことだ。でも、俯くミアの姿を見ていると、思う。もっとあがくべきではないのか、と。どうせ何もできないのなら、何かしてから、そうと思い知っても良いのではないか、と。自分自身のことなら諦めることができても、ヴォルフリート将軍のことは諦められない。


「すみません、奥様。変な話をして。……片付け、ますね」

「ええ……」


 ミアが立ち上がって茶器や菓子の皿を片付けるのに、エリーゼは上の空で頷いた。自分に何ができるかを、考えるので頭が一杯になっていたのだ。

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