差し出された心臓

 馬車に立ちふさがるようにエリーゼを盾にする男を見て、まず御者が目と口を大きく開けた。手綱を引くのももどかしく、御者は車内に向けて何か囁いたようだ。緊張のあまりにだろうか、エリーゼには聞こえなかったけれど──ヴォルフリート将軍の驚きを思うと、申し訳なくてならなかった。

 そして、馬車が完全に止まらないうちに扉が勢いよく開き、見たいけれど見たくない人が飛び降りてくる。


「エリーゼ!」


 名前を呼んでもらえたことに、胸が熱くなる。初めてで──きっと、最後になるだろうから。将軍の声を聴いたエリーゼの頬に、また一筋、涙の痕が増えた。将軍は、今はあの狼の仮面をつけている。でも、表情は見えなくても、声だけでも彼の怒りと焦りは伝わって来た。エリーゼのために、怒ってくれるのだ。


「お帰りなさいませ、将軍閣下……!」


 一方で招かれざる客の男は愉快そうに笑い、エリーゼの身体をしっかりと抱え直した。刃物を突きつけているのを見せつけるように。刃が陽光を反射して煌めき、その危うい眩しさに将軍は地に降りたところで足を止めてしまう。その背後から、もうひとり馬車から降りる人影がある。


「ヴォルフリート、これは――」

「アンドレアス、静かに。――彼女が、危ない」


 その人物は、将軍の抑えた唸り声とエリーゼの姿の両方に目を瞠ったようだった。緩く波打つ金の髪に、宝石のような緑の目の、身なりの良い男の人だ。マクシミリアン王子を思い出させるような──いかにも高貴な身分に相応しい、煌びやかな容姿の人だった。この人こそが、本来迎えるはずだった客人なのだろう。客に茶を淹れることもできないなんて、エリーゼは、最後まで屋敷の奥方らしいことができなかった。

 男はエリーゼを引きずって巧みに立ち位置を移動した。門を塞ぐ馬車の車体に隠れるように――通りから、この騒動が見えないように。御者も慌てて御台から降りてきていたけれど、刃物の煌めきの前に息を呑んで硬直するだけだ。


「手を放せ。その方は関係ない」

「人食い狼に擦り寄る娼婦だろう。関係なくは、ないよなあ?」


 男の熱い息が首にかかって、エリーゼの肌が粟立った。腰に回った男の腕が、拘束する以外の意図を持って蠢いた気がして。この男が、彼女の出自を知るはずがない――娼婦呼ばわりも、エリーゼを貶めて将軍を侮辱しようという意図でしかないはずだけど。それでも、殺されるかもしれない恐怖よりもずっと、「そういう」女として見られるのが恐ろしくて悍ましい。こんな状況ではあるけれど、将軍の前でそう呼ばれるのが、悲しい。


 恐る恐る薄目で窺うと、将軍はエリーゼではなく、男だけを見つめているようだったけれど。仮面の下の目は見えなくても、顔や身体の微妙な向きでそう思えた。


「一応聞いておこう。どこの遺恨だ? ハンドルフか、フォアブリュッケか?」

「……クレーエンアウゲだ。そこで弟がお前に燃やされた」

「そうか……」


 将軍と男がそれぞれ挙げたのは地名だろうか。多分、将軍が戦ったことがある場所なのだ。それらの場所のいずれでも人が沢山死んで――その中に、男の身内もいたのだ。コンラートと、同じように。彼の最期は悲惨なものだったと聞いたけれど、男の弟も、そうだったのだろうか。でも、将軍を憎むのは間違っている。コンラートだって、責められるべきは――


「お前も俺たちと同じ生まれだ。使い捨てられる雑兵だっただろう。なのにどうしてお前はそこにいる!? 貴族の奥方をもらってお屋敷に住んで……何が英雄だ!」

「きゃ……」


 でも、亡くなった婚約者の姿を思い浮かべる余裕は、エリーゼには与えられなかった。耳元で怒鳴り声が聞こえると同時に、腹を強く締め付けられる。将軍が踏み出そうとした足は、刃物の煌きによって止められた。


「その人を離せ。その人は、お前と同じ立場の人だ。俺に愛する人を殺された――そんな人を手にかけて何になる!?」

「ヴォルフリート将軍の噂を聞くたびにはらわたが煮える思いだった。収めるにはお前にも苦しんでもらわなければ」

「それは八つ当たりに過ぎない。その人を離せ。恨み言ならその後で幾らでも聞いてやる」


(話さなくて良い……私には構わないで……)


 将軍がどうしてエリーゼを気に懸けているのか、本当に訳が分からなかった。彼にとって、エリーゼはたまたま知り合った小娘でしかないはずなのに。見捨てて欲しいと、心から思う。エリーゼを屠った返す刃で、男が将軍を狙うのだとしても、足手まといがいなければきっとずっと簡単なはず。エリーゼだって――声を出すことはできないけど――目で、必死に訴えているつもりなのに。


「お前の言葉など信じられるか! 少しでもお前の足を引っ張ってやれれば本望だ」

「そんなささやかな復讐では弟に顔向けできないだろう。――ここを狙え」


 なのに、将軍は手で真っ直ぐに自らの心臓を示すのだ。エリーゼにさえ分かるほど、構えることなく無造作に。男の動揺はいよいよ激しく、耳元に聞こえる荒い息が嵐のようにも思えるほどだ。


「見え透いた罠だ……!」

「武装しているように見えるか? それともお前の恨みはそれほど鈍いのか。これほど隙だらけで立ってやっているのに」


 止めて、と叫ぼうにも、エリーゼの喉は干上がっていて漏れるのは微かな吐息だけだった。男の腕に力が篭っているのが、密着している彼女にはよく分かった。ヴォルフリート将軍の挑発は、確実に男の理性を確実に擦り減らしているのだ。男の激情が向けられるのがエリーゼなら、まだ良いのだけど――


「早くしろ! 折角の機会を棒に振るのか!」

「――クソ……っ」


 男が吐き捨てると同時に、エリーゼの視界が大きく傾いだ。地面に投げ出された、と気付いた時には半身を強い衝撃が襲う。


(駄目……!)


 男に追いすがろうとしても、強張った四肢はエリーゼの言うことを聞いてくれなかった。ただ、指先が辛うじて土を掻くだけで。その癖、閉じることができない目を白刃の煌きが射る。つい先ほどまでエリーゼに突きつけられていたのは掌ほどの長さの短剣だった。でも、その程度の刃でも心臓に突き立てるのは十分だと分かってしまう。


「止めて……!」


 やっと、声を出すことはできた。男を止める役には立たないだろうけど。将軍は、まだ軽く手を広げ、穏やかな表情で刃を待っている。本当に、男の恨みを引き受けるつもりなのか。エリーゼを庇って命まで投げ出してくれるというのか。痛みと恐怖と混乱で訳が分からないまま、エリーゼは息を呑んで目を瞠ることしかできなかった。

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