口論
ヴォルフリート将軍の胸に刃が突き刺さるのをほぼ確実な未来として幻視した――エリーゼの視界に、黒い影が飛び込んだ、気がした。
「何を突っ立っているんだ!」
次いで、鈍い音が続けざまに二度、響く。一度目は黒い影が男に体当たりした音。二度目は、男がエリーゼと同じく地に叩きつけられた音。怒鳴った声の主は――あの、金の髪の貴公子だった。
(助か、ったの……?)
将軍と共に馬車に降りたはずの人の姿を、すっかり見失っていたことに気付いてエリーゼは呆然とした。将軍が男の気を惹きつけている間に、貴公子は気配を殺して刺客に回っていた、らしい。エリーゼがそうと認識した時には、男は既に縛り上げられていた。まだ暴れてもがく男の手から短剣が奪い取られたのを見て、エリーゼはやっと安堵の息を吐く。でも、不穏な気配はその場から去ってはいなかった。
「――彼女を助けるために隙を見せた、そうだな? 信じてくれたんだよな? まさか、本当に刺されてやろうとは思ってなかったな? 君が死んだら――」
「当たり前だろう。――彼女に、早く手当てを」
「こちらを向いてくれ! 自分の身を何だと思っている!?」
荒い口調で将軍に詰め寄るのは、金の髪の貴公子だった。将軍と男のやり取りに口を挟せてもらえなかった鬱憤を晴らすかのように、大きな声で。男の人の怒声にエリーゼは竦んでしまうけれど、貴公子が怒るのも当然だ。エリーゼの目にも、将軍は男の刃に身体を差し出しているようにしか見えなかった。
(あの方に任せていらっしゃった、のよね……? 注意を惹きつけるためにあんなことを……そうなのでしょう?)
貴公子の声も、エリーゼが見つめる視線も無視して、将軍は彼女の傍に膝を突いた。仮面に隠れて表情が見えないから、余計に怖い。この人のことが、ではなくて、この人が何を考えているかが、恐ろしかった。どうしてエリーゼなんかのために命を投げ出そうとしたのか。
「すまなかった。こんなことになるとは。甘く見ていた、俺の落ち度だ」
掛けられた優しい声が、彼女の肩を抱く腕が、ぎこちない笑みを見せてくれた気がして、エリーゼの目の奥が熱くなった。やっと、生きている、と実感できたのだ。彼女自身のこと以上に、この方はちゃんと生きている。それが嬉しくてならなかった。
吐息が唇から漏れると同時に、エリーゼの目から雫が溢れた。既に涙の痕で汚れた頬に、また一つ、新たな筋が刻まれる。そして涙だけでなく、言葉も、彼女の意思に拠らずぽろりと唇から零れ落ちた。
「……殺されてしまうかと思いました」
「ああ……本当にすまなかった」
エリーゼが言ったのは自分のことではなく、相手のことだ。でも、将軍はそうとは気付いていないのか、仮面越しの声が少し陰った。
「とても、怖かったです。死んでしまうということは……とても。コンラート様もきっと、こんな……」
(ああ、これではいけないわ……こんな言い方……)
コンラートの名を聞いた瞬間に、エリーゼを支える将軍の手がぴくりと震えた。それを感じてエリーゼも気付く。このままでは、将軍はひどい誤解をしてしまうだろう。そうではないと、言わなくては。将軍が思っているのとは違うのだと。エリーゼは彼を憎むどころか、幾ら感謝してもし切れないのだと。将軍は、彼女を救ってくれたのだ。
「助けていただきました。ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしていない。そもそも俺のせいだ」
「違います。そうではなくて――」
亡くなった人のことを持ち出して、責めたかった訳でもない。コンラートも味わった死の恐怖を知って、やっと受け入れられた気がしたのだ。コンラートに何が起きたのか、彼の死をどう受け止めるべきか。その上で、将軍を恨む気持ちなど欠片も湧いてこない。むしろ――
「お話し中失礼するが」
心の裡を伝えようと吸い込んだ息を、けれどエリーゼは言葉にすることができなかった。貴公子が苛立たしげに彼女と将軍に歩み寄り、聞こえよがしに咳払いをしたのだ。
「私のことを紹介してもらえるだろうか。幸い、無事だったようだし」
「怪我をした女性がいるのに何という仰りようだ」
そして、将軍がエリーゼを抱えて立ち上がりながら発した声も、貴公子に負けず劣らず不機嫌そうで、エリーゼは息が止まる思いをした。将軍は、貴公子に向かい合いながら仮面を毟り取っていた。現れた素顔は、火傷によってだけでなく歪んでいる。彼にそうさせる感情は――怒り、なのだろうか。エリーゼのために、彼がこれほどの激情を見せるとは思ってもいなかった。多分、貴公子の方でもそうなのだろう。束の間、呆気に取られたように目を瞠った彼の白皙の頬に、瞬く間に血の赤が上った。
「これ以上の怪我をしないためにも、だろう。このようなことがあった以上は急いだほうが良いんじゃないか? その方のためにもなることだ」
エリーゼを支える将軍の腕に、力が篭った。抱きしめられている訳では、決してない。でも、かつてない距離の近さに、エリーゼの胸は勝手に高鳴ってしまう。ふたりの男性の間に漂う剣呑な気配とは裏腹に、全く怖くない――むしろ、安心するくらいなのが不思議だった。好きな人に守られていると感じるからだろうか。怪我を気遣われているだけだというのに、なんて図々しい思い上がりだろう。
「動揺している隙に付け込むようなことはしたくない。折角来ていただいたが、日を改めさせてもらいたい」
「その方は君の妻だから狙われたんだぞ!? 先延ばしにして、また同じことがあったらどうする!?」
「二度はないように守るし、協力してもらいたいものだ。王女殿下がこのことをご存じないなら、だが」
「あの方がこのようなことをするものか! 名誉に代えてもその方は無事に身を退いてもらわなければならないのに……!」
(王女様の名誉……?)
身体に響く将軍の声に、エリーゼは首を傾げた。王女とは会ったこともなく、顔も名前も知らない。彼女は、高貴な身方の評判を左右するような大層な身の上ではないのだけど。ただ――
「あの――」
彼女の心を読んだかのように、将軍が守る、と言ってくれたことが嬉しかった。貴公子が彼女を追い出したがっている気配は分かるけれど、将軍の考えは違うのかもしれない。ふたりは言い争ってさえいるようだし――希望を持っても、良いのかもしれない。そう思うと、エリーゼにも声を上げる勇気が湧いた。
「お客様を立たせてしまっていては申し訳ないですから……」
どうぞ中に、と続けると、貴公子は驚いたように眉を寄せた。彼女が喋ることがあるなど思ってもいなかった、とでもいうかのように。将軍も、やはり顔を顰めて彼女を見下ろし、そしてすぐに顔を上げる。その時に首を捩じった角度から、仮面を取った素顔で覗き込むのを避けたようだった。エリーゼは、彼の顔を恐れてなどいないというのに。
「貴女はもっと自分のことを気にするべきだ」
将軍がむっつりと呟いたことは、彼にこそ当てはまるものだった。でも、エリーゼがそれを指摘することはできなかった。将軍は軽々と彼女を抱き上げると、屋敷に向かって歩き出したのだ。
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