ヴァイデンラント伯爵

 邸内に戻って改めて見てみると、男の刃はエリーゼの首に幾筋もの傷を刻んでいた。流れた血は胸元までを赤く染めていて、その惨状はミアに高い悲鳴を上げさせた。


「傷が残ることはないでしょう。不幸中の幸いでした」


 そう言って彼女を慰めたのは、手当てをしてくれた使用人だった。この屋敷に残っている──つまりは兵士上がりでヴォルフリート将軍に長く仕えている──だけあって、手当てや傷の見立てにも長けているということだった。我に返ると、肌を切り裂かれた痛みは身動きするたびにエリーゼを襲ったけれど、でも、それも生きていればこそのことだった。


「私がお客様だなんて言わなければ――」

「いいえ、私が迂闊だったの。貴女は止めてくれたのに……」


 顔色を青褪めさせたミアを宥めて、エリーゼは話を逸らそうと無理に微笑を浮かべた。


「結局は、助かったのですもの。旦那様に何事もなくて、良かった……」

「はい。それは……そう、なんですけど」


 ミアが歯切れ悪くぎくしゃくと頷くのは、門の前での顛末を聞いたからだろう。暴漢に対して、将軍が自ら心臓を差し出そうとした、と。それも、エリーゼを庇って! 当のエリーゼでさえも、思い返すと再び見えない刃物を首筋に突き付けられた気分になるのだ。将軍を慕うミアなら、なおのことだろう。


 エリーゼに復讐を望み、いずれ罪を着せられる可能性さえ淡々と受け入れようとしていた方ではあるけれど、実際に刃を向けられて平然とした顔を見せられるのはまた話が別だった。あの諦めの良さというか、無造作さは一体何に由来しているのか――心中、不思議に思いながらエリーゼは呟いた。


「あの人はどうなるのかしら……」

「縛った上で閉じ込めているそうです。雇った者がいるのか、仲間がいるのか……調べて、くれるとか」


 不機嫌に吐き捨てるミアの言葉を聞いて、エリーゼは黒幕がいる可能性にやっと思い至った。あの男を送り込んだ者がいるとして、それがギルベルタであることは十分に考えられる。彼女は、コンラートの後を追うべきだと思われていたのだから。身内の恥を始末しつつ、将軍を醜聞に塗れさせる――それなら、エリーゼが結婚を命じられた理由になるかもしれない。でも──


(あれ……旦那様は、王女様を疑っていらっしゃった……?)


 気品のある客人との、口論めいたやり取りは、思い返せばそういうことだったような気もする。エリーゼが身を退く、とか何とか──つまり、殺してしまえば、ということだろうか。そんなことはあり得ない、ともエリーゼには言い切れないのが恐ろしかった。


(王女様が、兄君様と争うのを望むような方なら……そんなことも企まれる、のかしら……?)


 もちろん、証拠も何もないこと、声に出すことなどできない考えだけど。自分の命を狙う者がいて、しかもその正体が誰とは分からない。刃を突き付けられた時よりもよほど鋭い寒気が、エリーゼの肌を粟立たせた。それを振り払うように、彼女はどうにかまた舌を動かした。


「それに、あのお客様は――」

「ヴァイデンラント伯爵様です、奥様。今は、旦那様とお話しされています」

「そう、やっぱりあの方なのね……」


 あらかじめ聞かされていた来客の名を、ミアは教えてくれた。


 ヴァイデンラント伯爵アンドレアス。王家の系譜に名を連ねる高貴な出自で、王女殿下とも交流がある方。ヴォルフリート将軍の勇名に感銘を受けて、親しくしているのだとか。先ほどの様子を見る限り、少なくとも気安く言葉を交わせる関係なのは確かなようだった。


「奥様は……お休みになりますよね?」


 ミアが上目遣いに尋ねてきたのは、エリーゼの頬が強張ったのに気付いてくれたからだろう。王女に近しい者が、彼女を快く思っているはずがないと、召使の少女でさえも知っているのだ。ミアの気遣いは、ありがたいものではある。嫌われていると分かっている相手のもとに出向くのは、怖い。傷の痛みも、緊張が解けた後にどっと襲った疲れもある。


「いいえ。私もご挨拶しなければ。私がお会いしたいと願ったのですもの」


 けれど、エリーゼは首を振った。その小さな動きでさえも、喉の傷を痛ませたけれど。でも、迷うことはない。微笑さえ浮かべて告げると、ミアが驚いたように目を瞠っていた。全く彼女らしくないことだから、無理もない。


「……この屋敷が――旦那様が、恐ろしくなってはいませんか? 出ていってしまわれる……?」

「いいえ。そんなことはしないわ」


 おずおずと問い掛けるミアに、エリーゼは迷いなく嘘を吐き、頷いた。


 怖いといえば、確かに怖い。将軍の命を狙う者の刃が、現実にこの屋敷にまで迫ってしまった。王女さえも、もしかしたらヴォルフリート将軍にとって最良の伴侶ではないかもしれない。もしも将軍は庇護されるとしても、その時はエリーゼの命はないのかもしれない。


 でも、一番恐ろしいのは戦場での罪の意識にさいなまれるあの方を救えないことだ。エリーゼならそれができるとも限らないのだけれど。将軍は、暴漢の刃に身を委ねようとしていたように見えたけど――諦めることは、できない。将軍に命を救われた恩は、命でもって返さなければならないと思うからだ。だから、身体の痛みも震えも、無視しなくては。


「私の心は、何も変わっていないわ」


 ヴァイデンラント伯爵に会うのは、屋敷を出る算段をつけるためではない。エリーゼ自身の望みのためだ。将軍のことをもっと知りたい。願わくば、支えになりたい。死に惹かれるのを止めてあげたい。彼女に叶えられる望みかどうかは分からないけれど、王女だろうと伯爵だろうとそれは同じなのだ。そう思うと、少しだけ気を強く持てる気がした。




 エリーゼが姿を見せたのは、将軍にとっては意外だったらしい。仮面を外したままの素顔の彼は、軽く眉を顰めていた。


「休んでいて良かったのに」

「いいえ。お客様にご挨拶をしなければなりませんから」


 血で汚れた服は、既に着替えている。あらかじめ用意していた、来客用の格式の衣装へと。幸いに衿が高い意匠だったから、喉の包帯もさほど目立たずに済むだろう。改まった装いをしたことで自然と背筋も伸び、エリーゼに毅然として振舞う力を与えてくれているようだった。


「落ち着かれたようで安心いたしました。お目にかかれて光栄です、エリーゼ嬢」

「私こそ、伯爵閣下。お呼びだてするようなことになって申し訳ありませんでした」


 落ち着いた、とはヴァイデンラント伯爵のためにこそ言うべきことだっただろう。頬に血を上らせて将軍に詰め寄っていた先ほどの様子と打って変わって、今の彼はにこやかで感じの良い貴公子でしかなかった。コンラートも、爵位こそなかったけれど、この方のように爽やかな容姿と快活な人柄で社交界で人気を集めていたものだ。でも、外見の美しさと内面の美しさは別なのだ。亡くなった婚約者のことを思うと、見目の良い貴公子の笑顔にも惑わされずに済みそうだった。


「大聖堂での婚礼は見事なものでしたね。私もあの場にいたのですよ。お気づきではなかったでしょうが」

「そうでしたか。参列していただいていたのですね。誠にありがたく存じます」


 ミアが茶器を並べ、エリーゼが教えた手順で茶を入れる間に、伯爵は少し怪訝そうに顔を引き攣らせた。ヴォルフリート将軍も同様だ。社交界の牽制のし合いの結果でしかない結婚を、祝われて当然のように語ったのだから無理もない。エリーゼも、自身の言い分の図々しさに背中に汗が伝うのが分かる。でも、これも彼女が考えた策の一環だった。実態や経緯はどうあれ、将軍の妻は自分なのだと、暗に示しておきたかった。

 挑戦的にも見えたであろうエリーゼの態度に、伯爵の目に険が浮かぶ。


「……あの日は、今にも倒れそうな顔色だから心配したものです。後からお母様のことを知って、納得しましたが。ああいう場には慣れていらっしゃらなかったのですね」

「ええ……はい、そうですね。初めての、ことでしたから……」


 重すぎるほどの豪奢な衣装も、突き刺さるような貴顕の視線も。あの日の情景も感じたこともはっきりと思い出せるのに、そう語ろうとするとエリーゼの舌はみっともなく縺れた。伯爵は、彼女のささやかな抵抗を正面から潰そうとしていると気付いたからだ。娼婦から生まれた私生児だから、華やかな場とは無縁だったのだろうと言われたも同然だった。


「ヒルシェンホルン夫人は――強い方でしょう。何も知らされずにになったのだとしたら、お気の毒だと存じていました。……ご実家での扱いも、調べさせていただきましたので」

「はい。確かに、何も存じませんでした」


 伯爵に気付かれないように、エリーゼはテーブルの下で衣装の生地をぎゅっと握りしめた。琥珀色の茶に目線を落としそうになるのを、必死に堪える。


(しっかりしなくては。覚悟していたはずでしょう)


 王女側の人間の立場からしたら、エリーゼが本当に何も知らないのか確かめるのは当然のことだ。怯えや動揺など見せたら、ギルベルタの企みを知っているからだと思われかねない。召使同然の扱いだった癖に、と言われるのだって気にしてはいけない。本当のことなのだから。身分の違いを弁えさせようとする手段に過ぎないのだろうから。


「だから、素敵な方に出会えてとても嬉しくありがたく思っておりますの」


 白々しく、練習した笑みを浮かべて見せながら、将軍の顔を見るのが怖かった。伯爵が調べたというエリーゼの素性を、教えられているのだろうか。卑しい恥ずべき生まれの娘だと分かったら、気遣ってくれる優しさも終わってしまうだろうか。伯爵を招いてくれた厚意に背くような真似をして――しかも、エリーゼにはまだ秘密があるのに。

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