エリーゼの戦い
「こいつの顔と評判で、そのようなことを仰れるのは――正直言って、驚きですね」
「優しい方ですもの。すぐに分かりました」
伯爵以上に驚きを露わにしている将軍に届けば良いと念じながら、エリーゼは大きく頷いてみせた。伯爵から情報を引き出すためのやり取りではあっても、この言葉は彼女の心からのものだ。それを、将軍は分かってくれるだろうか。
「誤解されがちな奴ですから、そう言っていただけるのは嬉しいものです」
「どうしてひどい誤解がまかり通っているのか、本当に不思議でなりませんの」
「ご実家ではそのように言われることが多かったのかもしれませんね。でも、真実を見抜く者も、世間には大勢います。高貴な方の中にだって」
「それは喜ばしいことですわ」
将軍を悪く言うのはトラウシルト家の屋敷の中だからだ。お前も同類だったのだろう。でも、王女はそのような評判には与しない。伯爵の言外の言葉が、エリーゼの耳にはっきりと聞こえるようだった。本題――王女のために将軍の妻の座を空けること――に入らせない彼女に苛立っているのも、ありありと伝わってくる。にこやかに微笑んでいる伯爵の、青い目だけが笑っていないのは怖かった。エリーゼが何事かを口にする度に、思い通りにならない小娘だと思われているのだろう。でも、これも分かっていたことだ。エリーゼには、ミアが淹れてくれた茶に口をつけて伯爵を焦らせる余裕だってある。あるいは、そう装うことができている。
「私は、伯爵様にご相談したいことがありましたの」
「ええ、私にできることなら何なりと」
エリーゼが茶器を置くと、伯爵は目に見えて安堵したように笑い、将軍も軽く身を乗り出した。いよいよ、話が前に進むのだと思ったのだろう。間違えて押し付けられたこの娘をどうにかすることができる、と。エリーゼがそのように期待させただけだとも、まだ知らずに。
「婚礼の夜に、伯爵閣下は仰いました。私の……亡くなった婚約者のことで、恨んでいるだろうと。復讐するなら、絶好の機会だと」
「エリーゼ、それは――」
先ほどの一件のどさくさに紛れて、将軍はエリーゼの名を呼んでくれるようになったらしい。そのことを嬉しく思いながら、同時に申し訳ないと思う。将軍が思わずといった調子で上げた声、伯爵が一瞬彼を睨んだ目の鋭さ。それらの気配から、伯爵が知らなかったことだと分かったのだ。壁際に控えるミアも、目を丸くしている。ふたりきりでの会話を他人に勝手に漏らすのは、本来ならば許されないことだとは、重々分かっている。
「もちろん、私に閣下をお恨みする気持ちなど欠片もありません。そうお伝えすると、間違えた、と仰って。それで、こうして伯爵様をご紹介していただくことになりました」
でも、これはミアが教えてくれた、エリーゼの数少ない手札なのだ。将軍の危うい心の裡を垣間見ているということが。一同が言葉を失っている隙を逃さず、エリーゼはそっと目を伏せて胸元で手を組み合わせた。
「私の行き先を案じてくださるのは大変ありがたいことです。でも、私は閣下の御身が心配でなりません。そしてやはり不思議です。伯爵様のように親身になってくださる方もいらっしゃるのに、どうして閣下はあのようなことを仰ったのでしょうか」
しおらしい振りで、伯爵は将軍のために何ができるのか、と問い質したのだ。それが伝わったのだろう、ヴァイデンラント伯爵は、今度こそはっきりと眉を寄せ、答える声を尖らせた。
「貴女には関係のないことだ」
そうかもしれない。そう言われたら、反論のしようがないと、今朝までのエリーゼは考えていた。でも、今なら堂々と首を傾げることができる。
「さっきのことがあったのに、でしょうか」
「貴女がこの屋敷にいるからだ! 怖いのなら安全な居場所を手配して差し上げよう」
先ほどの男が今日現れてくれたのは、いっそ僥倖だったかもしれない。将軍の妻であるがゆえに狙われたエリーゼは、あきらかに無関係ではないはずだ。ギルベルタによって送り込まれた刺客だとしたら、伯爵には白々しいと思われているかもしれないけれど。でも、首元に覗く包帯の白が、彼女の「関係」を言葉よりも雄弁に物語ってくれている。だからだろうか、忌々しげに吐き捨てた伯爵の語勢は弱かった。
「閣下は、命じられたことに従ったのだとも仰っていました。先ほどの人も、憎むならば命じた方を憎むのが道理だと思います。残酷なことを命じておいて、その方は閣下の悪評を拭ってはくれないのでしょうか。その方は、いったいどなたなのでしょうか」
「……それが私だというなら筋違いだ。私の目的は全く別のところにあるのだから」
伯爵がエリーゼを睨む目に、一層の強さと鋭さが加わった。視線に貫かれるとエリーゼの胸は恐怖に痛んだけれど、同時に希望に高鳴りもする。伯爵にとって、彼女の糾弾が不本意なら良い。それなら、この方は本当に将軍を助けようとしているのだと信じられる。それに、不本意な濡れ衣を晴らすために、将軍に命じた者のことを教えてくれるかもしれない。
伯爵が大きく息を吸い、エリーゼは彼の言葉に耳を澄ませるために息を呑んだ。けれど、次に発せられたのは、将軍の穏やかな声だった。
「アンドレアス、やはり出直してもらった方が良いな。女性に声を荒げるのは君らしくない」
「私は君を守りたい。それを疑われるようなことを言われて黙っていられるか」
暴漢を取り押さえた時と同じ構図が繰り返されているのに気づいて、エリーゼは落胆の息を吐いた。伯爵は、エリーゼを無視して将軍に意識を向けてしまった。それも、さっきと違って将軍は意識して話題を逸らしているのが見えてしまうのが悲しかった。エリーゼがしようとしていたのは、やはり余計なことでしかなかったのかもしれない。将軍が急に口を挟んだのは、彼女に何も教えさせないためだとしか思えなかった。
「君の友情と厚意には感謝している。それに、彼女の意向をちゃんと確かめていなかったのも申し訳ない。この件について、俺はどうも早とちりが過ぎるようだ」
「随分と想われてるようじゃないか。聞いてなかったぞ」
エリーゼの失望など知る由もないのだろう、伯爵は、将軍に対して憤りを真っ直ぐにぶつけている。だから、彼女に当てつける意図などないはずなのだけど――想う、という表現にどきりとして、エリーゼは将軍の顔をまじまじと見た。そんなつもりでは、なかったのだ。今の彼女は、純粋に将軍の身を案じているだけで――この方に愛を伝える資格など、彼女にはないのだから。
訂正すべきかどうか躊躇ううちに、将軍は口元をほろ苦く笑ませた。伯爵に対して弁明するように。あるいは――もしかしたら、信じられないけれど――少しだけ、照れくさそうに。
「俺も知らなかったんだ。信じないかもしれないが」
「彼女を選んだ理由も初耳だったからな! 婚約者を死なせた責任を取るとか言って――まんまと騙されていたという訳だ」
「嘘のつもりはなかった。復讐を果たさせることができるなら、それも責任だろう」
「馬鹿な。君は簡単に死んではならない存在だ。ヴォルフリート将軍の存在が、どれほど兵に勇気を与えたか知らないんだろう! 私だって──」
「ならば、君は彼女に感謝すべきだろう」
将軍は、あくまでも穏やかに伯爵に告げた。でも、だからこそ気に入らなかったのだろう。伯爵がエリーゼに振り向いた時の目の鋭さに、思わず彼女は息を呑んだ。どうしてお前が、と。その目は厳しく問い質してくるようだった。なぜ、将軍は彼ではなくこんな小娘に肩入れするのか、と。怒りというよりは憤りの篭った視線に貫かれれば、認めざるを得ない。この方が将軍を案じるのは、真実だ。本心から将軍の無事を願うからこそ、トラウシルト家の息のかかった――と思われているであろう――女の差し出口が許しがたく聞こえるのだろう。
「……確かに、出直した方がよさそうだ。思っていたよりも君が死にたがっていたことを、どう考えれば良いか分からない」
絞り出すように呟いた伯爵が席を立った瞬間、青い目が悲しげに悔しげに陰っていた。その色を見て、けれどエリーゼは少しだけ嬉しかった。今日のところは、この屋敷を追い出されずに済んだ。将軍の味方になってくれる方だと確かめることができた。それに――伯爵相手に臆することなく言葉を紡ぐことができた。ごくささやかなものであっても、エリーゼは勝利を掴み取ることができたのだ。
伯爵を見送った瞬間、エリーゼは深々と息を吐いた。ずっと気に懸けていてくれたらしいミアが、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「奥様、大丈夫ですか? やっぱり、お疲れでは……?」
「いいえ。大丈夫なの、本当に」
両手で自らの身体を掻き抱くのは、何よりもまず、高揚を抑えるためだった。だから、ミアに心配してもらう必要は、まったくなかったのだ。
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