新たな縁談
答えを待つエリーゼの頭上に、深々とした溜息が降った。
「まったく不思議なことを言う。美しいだけでなく、心優しい若者だったというのに! あの笑顔が二度見られないというのに、なぜ泣き叫ぶことさえしないのだ?」
エリーゼは、必死にコンラートの笑顔を思い浮かべようとした。けれど、命じられたように悲痛な声を上げることはできなかった。彼は……エリーゼに優しかった、だろうか。時おり、花や菓子をくれたりはした。でも、結局は分不相応だと取り上げられることになるのは気付いてくれなかった。ギルベルタと同じように、彼女にとてつもない幸運を授けるのだと信じていたのだろう。求婚する前に、彼がエリーゼに意思を問うことは一切なかった。いや、でも、彼女が首を横に振ることなど許されていないのだから当然なのだ。
(悲しい……私は、悲しいはずよ。きっと、そう……)
引き攣る喉と乾き切った目に焦り、ギルベルタの叱責を恐れて跪いた体勢で縮こまると、嫌でもギルベルタの杖の先が視界に入る。苛立ちを示すように、あるいはエリーゼを問い詰めるように一定の間隔で地面を叩いている。
「お前はいつも人の顔色を窺うばかり。何も感じない、何ひとつ自分の頭で考えない。人形のような娘……!」
「それは、あの、私の考えなどないに等しいものですから。大奥様や――賢明な方々の命令をお待ちするばかりで……」
エリーゼが自分の考えを述べて、良い結果になったためしはほとんどない。嘲られるか呆れられるか詰られるか、いずれにしてもギルベルタの気に入るとは思えない。どのように振る舞えばトラウシルト家の末席に連なる者に相応しいと認めてもらえるのか。彼女は常に教えてもらわなければ分からないのだ。
「では、お前の行く先を私が決めても異存はないのだな?」
改めてそう言われると、安堵だけではなく恐れと不安も湧き上ってしまうから勝手なものなのだけど。ギルベルタは、エリーゼが何と言うかを予想していたかのようだから。頭上から感じるほくそ笑むような気配に、何かひどい、おぞましい道筋を示されるのでは、と咄嗟に考えてしまうけれど――でも、否と言えるはずもない。
「……はい。大奥様。もちろ――」
断頭台に首を差し出す思いで頷こうとして、でも、エリーゼは最後まで言い切ることができなかった。花火のような火薬がはじける音が、立て続けに空に響いたのだ。驚いた鴉が飛び立ち、黒い羽根を雨と降らせる。
もちろん、昼間の空に花火を打ち上げることはない。鴉とエリーゼを驚かせたのは祝砲の音だ。コンラートは戻らなくても、オイレンヴァルトは国としては勝利を収めた。長らく因縁の深かった、隣国ファルケンザールをとうとう降したのだ。今日は、戦場に散った者たちの遺族にとっては葬儀の日であると同時に、より多くの人々にとっては凱旋を祝うべき晴れがましい日なのだ。耳を澄ませば、喜びに沸く人々の笑い声や歌声も微かに聞こえる。通りを幾つか隔ててたところでは、凱旋の行列を従えた戦勝の将軍が、民の歓呼の声を浴びているはず。コンラートも従っていた──ヴォルフリート将軍が。
今日の王都は、わずかな距離が喜びと悲しみの明暗をはっきりと分かっている。もちろん、トラウシルト家がおかれているのは悲しみの影の方だ。ギルベルタは祝砲が聞こえた方角を憎々しげに見やると、杖の先で地面を抉った。
「死者の眠りを妨げるとは無粋なこと。犠牲あっての勝利だろうに……!」
「将軍のお姿を、民が見たがっているのでしょう」
自身に向けられたものでなくても、ギルベルタの怒りはエリーゼを怯えさせる。常ならば目溢ししてもらえる彼女の欠点を、ギルベルタは苛立ちによって思い出してしまうかもしれないのだから。宥めようと当たり障りのないことを口にしても、やはり効果は見込めそうにないなかった。いかにもつまらないことを言われた、と言いたげにギルベルタは鼻を鳴らしたのだから。
「しょせん人殺しに過ぎぬ。民草の愚かさと物見高さはまったく唾棄すべきものだ」
「でも……あの、コンラート様の仇を取ってくださったとも言えるのではないでしょうか……」
握りしめたままだった白い薔薇を、エリーゼは手の中で
気になるけれど、エリーゼがギルベルタに問いを投げることはできない。それどころか、鋭い薄青の目は鷲のそれのようにエリーゼを捉えて逃がさず、言葉は爪のように彼女を狙う。
「そうか? 可愛いコンラートを無為に死なせたのではなく? 遺体さえ捨て置いて、髪の一筋も帰さなかったというのに?」
「私……私、そのような――」
余計なことを言ってしまったと気付いて、エリーゼは身体を縮めて目を伏せた。ギルベルタの前では自分の意見を言うべきではないと、よく知っていたはずなのに。でも、自国の将軍を人殺しと嫌っているなど思い至れるものではない。確かに、コンラートの棺は幾らかの遺品を収めただけでごく軽くて、一族の者たちの嘆きを一層深めていたのだけど。でも、それだけ激しい戦いということだったのだろうと、エリーゼは納得していた。これも、ギルベルタには情が薄いと責められるのだろうか。恐る恐る、そしてほんのわずか、目線を上げてみると、でも、ベールから覗くギルベルタの唇は弧を描いて笑んでいた。
「まったく薄情な娘。だが、それくらいがちょうど良いかもしれぬなあ」
「……え……?」
「私には憎むべき殺人者だが、お前はそうは思わないのだな。国を救った英雄とでも思っているなら愚かだが――だが、ならば仕えるのは名誉だな? まして、我が家に恩を返す機会にもなるのだから。いつものように喜んで従うな?」
「仕える……ご恩……あの、どういう……?」
今やギルベルタが杖をつく音の響きも間隔も変わっていた。苛立ちを示すものではなく、どこか軽やかな調子は音楽にも聞こえるかもしれない。でも、彼女も可愛がっていた若者の葬儀の席で、どうして楽しそうにできるのだろう。エリーゼが同じ態度を取ったなら、即座に叱責の杖が飛んできているだろうに。
彼女の処世の常として、エリーゼはギルベルタを見上げて曖昧に微笑んだ。愚かに見えるから止めろと、叱られることもある振る舞いだけど。でも、今日のこの時に限っては、ギルベルタは上機嫌なままだった。愚かな娘に教えを授けるのが愉しくて堪らないとでもいうかのように。
「お前の落ち着き先を教えようとしていたところだったのだ。まともでない娘には、やはりまともでない男が似つかわしかろう」
「大奥様、あの、それは――」
エリーゼは確かに愚かで察しが悪い。でも、ここまで来れば気付かずにはいられない。でも、示された道、従うしかない道は彼女が予想していたよりもずっとずっと恐ろしいものだった。「あの人」を救国の将軍と呼べるのは、遠いところにいるからというだけだ。エリーゼが息を呑んで唇を震わせる間にも、恐ろしい噂の数々が脳裏に渦巻いている。
「ヴォルフリート将軍を名乗る野蛮人。残酷な餓狼。屍を薪にし、炎で死を築く者。おぞましい怪物の癖に人間の――それも高貴な血を引く妻を欲しがるとは強欲にもほどがある。だが、お前とならちょうど良い
ギルベルタの笑みの理由を、エリーゼはやっと悟った。この方は、一族の汚点である娘を驚かせて怯えさせるのが好きなのだ。これまでも常にそうだったけれど、今はその汚点を家の外に追い出せる好機でもある。それなら、笑わずにはいられないのも当然だ。
鴉の羽音がエリーゼの耳を打った。どれほど大きい翼を持った鳥なのだろう。エリーゼの視界は真っ黒な闇に染まっていた。
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