枷を外したミアの手首は、皮膚が破れて血が滲んでいた。ヴァイデンラント伯爵は、その傷を見下ろして痛ましげに眉を顰めた。


「ろくな手当もできず、すまなかった。君に甘すぎると見られる訳にはいかなかったんだが──」

「大丈夫です。大したことないですし」


 伯爵が手ずから召使なんかの手を取って、薬まで塗ってくれている状況が不可解で、ミアの眉も自然と寄る。このひと月あまりというもの、枷の重さとじくじくとした痛みには慣れていたつもりだけど、手当のためとはいえ人に触れられる痛みはまた新鮮だった。


「君がそう言っても、ヴォルフにも奥方にも叱られるだろうな。当然のことだし、それで許されるとも思わないが……」

「あの、おふたりには何て──どこまで……?」


 ミアが尋問を受けている間、当然のことながら将軍の屋敷とのやり取りは許されていない。伯爵が声をかけてくれるのも必要最低限で、だから、彼女は主たちの容態もまだ知らない。ミアが屋敷にいても良い、傍に置き続けたいと言ってくれた、ふたりの気が変わっていないかも。

 不安に鼓動が早まるのを感じながら恐る恐る尋ねると、伯爵はミアの手を取ったまま、にこりと笑った。


「無論、傷は深いが順調に回復している。ヴォルフに至っては、ついでに古傷も治せるかもしれない。──それに、君のことをとても心配している」

「嘘、そんな……本当ですか?」

「ああ。確かめると良いだろう」


 それはどういう意味か、と。口に出すこともできずにミアは目を見開いた。枷を外されたこと、伯爵が手当てしてくれたこと──それに、直接、だなんて。まさか、という期待は高まるけれど、否定されるのが怖くて問うことができない。彼女の戸惑いと不安を感じ取ったのかどうか、伯爵は笑みを深めるとミアの手を包み込んで言い聞かせた。


「君への尋問はもう十分だと判断された。自由に外に出ることは叶わないが──屋敷の中なら、これまで通り過ごせるだろう」




 将軍の屋敷を出る時は、夜の闇に紛れて罪人のように運ばれたものだった。それが、今は昼間の王都を、伯爵家の豪奢な馬車で進んでいる。柔らかなクッションに腰を落ち着けていること、隣には伯爵がいることがどうにも居心地悪くて、ミアはできるだけ身体を縮めていた。

 馬車はヴォルフリート将軍の屋敷に向かっているということだった。王子の陰謀を追及するための、大事な証人を匿うためという建前は──本当に、建前なのだろうか。将軍夫婦は、仕方なく、あるいは監禁するつもりでミアを受け入れるのではないのだろうか。ずっと王子の手先だったミアを、また傍で使ってやろうだなんて、本当に考えているのだろうか。

 伯爵が何を言ったところで、屋敷に着くまで──あの人たちに会うまで信じ切れないのは分かっている。とはいえ、馬車の車輪が石畳を噛む音をひたすら聞き続けるのも気づまりだ。だから代わりに──というか何というか──ミアは別のことを尋ねてみることにした。


「……王子様はどうなるんですか」

「理不尽にも感じるだろうが、表立って断罪されることはないだろう。王族を告発するのは簡単なことではない。国内が穏やかではないと、国境の外に悟らせることもできない」

「そうですか」


 大して期待はしていなかった。でも、はっきりと告げられると悔しさを押し殺すこともできなくて、ミアは唇を噛む。ヴォルフリート将軍は、あんなにも残虐だの非道だのと囁かれたのに、それを命じたのが王子だと明らかになっても、同じように罵られることがないなんて。


「ただ、あの方ご自身は罰を受けたと感じるはずだ。少なくとも、あの方が王位を継ぐ道は断たれた」

「……本当に?」


 伯爵を見上げたちょうどその瞬間に、馬車が何かに乗り上げてミアの身体は宙に浮いた。再びクッションに着地する時には、伯爵が卒なく彼女を支えてくれる。馬車の揺れが収まってからも肩に手を置いたままなのは──そうでもしないとくずおれてしまいそうなほど、ミアの顔色が悪いのだろうか。伯爵に聞き返したのも、特に答えが知りたくてのことではなかった。ただ何かを話していないと落ち着かなくて仕方ないというだけで。


「勝利したとはいえ、ファルケンザールの心情を踏み躙る訳にはいかない。『狼将軍』を操っていた者が王位に就くなど、受け入れられはしないだろう。戦勝を無に帰さないためにも、あの方は表舞台から退いていただかなくては」

「あの人、本当に策に溺れたんですね……」

「ああ、そうだな」


 伯爵の溜息を聞きながら、ミアは貴公子の手からそっと逃れた。王子の失脚は、ほんの少しだけ留飲が下がること。でも、国同士の関係は彼女にはやはり今ひとつ理解しきれないことでもあった。ミアの気に懸かるのは、結局のところあの人たちのことだけだ。


「将軍は……大丈夫ですか? あの……噂っていうか。これからもずっと言われたりしないですか……?」

「すべてをマクシミリアン殿下に押し付けるように、アポロニア様は奮闘してくださる。ヴォルフは操られただけだと信じられるように──彼の働き方も、これからは変わるだろう。戦うだけではなくて、守る任務も与えられる。人を助け、感謝されるように」

「きっと喜ばれると思います。奥様も……」


 奥方のためにこそ将軍は王女に忠誠を誓うのだろうし、美しい奥方も、将軍の傍らに寄り添うことで夫の印象を大いに上向かせることだろう。本当に似合いのふたりで、互いが互いを支え合う夫婦で──だから、出会えて良かったのだ。何とかいう奥方の実家、血筋を鼻にかけて将軍を貶めようとした人たちや、どす黒い本性を美しい顔の下に隠したマクシミリアン王子に屈しないで本当に良かった。陰謀を逃れて生き延びて、きっと今度こそ幸せになれる。でも──


(あたしの居場所なんてあるの? 王女様は、もっとちゃんとした召使を寄こすんじゃないの? あんなひどい裏切りをしといて、また元通りだなんて……そんなこと、あるの?)


 微笑み合う夫婦の傍に自分がいるところはどうしてもできなくて、ミアの胸は切ない痛みを訴えるばかり。息苦しささえ感じるうちに、馬車は無情にも止まってしまう。


「ミア。さあ、降りて。ふたりが待ちかねている」


 窓の外に見えるのは、確かにほんの一、二か月前までミアの家だった将軍の屋敷。今となっては再び足を踏み入れて良いか分からないままなのに。伯爵は笑顔で扉を開けるとミアに手を差し出した。




 一歩一歩を引きずるように、足に鎖でもつけられたかのように、ミアは重い気分で玄関へと向かう。先を行くヴァイデンラント伯爵は颯爽とした足取りで、ミアを連れて役目を誇らしく思ってでもいるかのよう。彼女がこの屋敷で歓迎されるとは思えないのに、何を勘違いしているのだろう。


(旦那様は書斎かな……それか、客間で伯爵さまにお茶を出す? 奥様はまだお茶を淹れられるお身体じゃないよね……)


 俯いて自分の爪先を見つめながら、ミアは屋敷の間取りを頭の中に思い浮かべる。書斎にしろ客間にしろ、将軍たちに会わずにいられるのは、廊下を歩むほんのわずかな間だけだ。その間に心の準備をしておかなければ、と。むっつりと思ったミアの耳に──扉が軋む以外の音が、届いた。


「──ミア!」

「奥様……? どうして」


 か細いけれど優しく澄んだ、銀の鈴を振るような声。聞き間違えるはずもない。目を上げれば、何度となく思い描いて案じていた人が、心配そうに眉を寄せてミアを見つめている。長く艶やかだった銀の髪は、短く断ち切られて。長い袖の服は、きっと火傷を隠すためだ。それでもなお、手首や首元は、肌よりもなお白い包帯が痛々しく覗いている。ミア自身が手当てをしたのだから分かる、まだ起き出して良いような容態ではないはずなのに。足の裏さえ大火傷して、傍らに立つ将軍の支えがあって、やっと立てるような有様なのに。

 先ほどまでの後ろめたさは、一瞬にして霧消した。ミアは将軍をきっと睨む。奥方が無理をするのを止めないなんてひどい、と──言葉にするまでもなく察してくれたのだろう、ヴォルフリート将軍は宥めるような苦笑を浮かべた。


「ミアの出迎えをすると言って聞かなかったんだ。俺も出るつもりだったから、少しだけなら、と──」

「大怪我をしたのに! 旦那様だって……何、してるんですか……っ」


 思わず上げた大声に、奥方の肩がぴくりと震えた。怒っているつもりはないのに、怯えさせたい訳ではないのに。炎の中に飛び込む勇気だってあるのに、どうしてこの人はミアなんかの顔色を窺うような表情をするんだろう。そして、大声に震える癖に、どうして大怪我を押して出迎えてくれたんだろう。

 さっきとは違う苦しさで胸がどきどきして、なぜか顔も熱くなってしまって。紛らわせるように、ミアはますます声を張り上げた。


「早くお部屋に戻ってください! 寝間着に着替えるのだって、痛い思いをするんじゃないですか!」

「あの、ミア、でも……お客様に、お茶を──」

「そんなの私がやりますから! 奥様は寝ていてください! 旦那様は支えて差し上げてください!」


 将軍と奥方にぴしりと言い渡すと、ミアは返事を待たずに屋敷の中に憤然と入っていく。どこに何があるかはよく分かっているのだ。怪我人を立ち働かせるくらいなら、彼女が何もかもやるしかない。


「──やっといつも通り、という感じになったな……?」


 くすりと笑った将軍の方を振り向くと、奥方の細い身体は彼の腕に収まっている。──仲睦まじいふたりの様子を見ても、ミアの胸はもう騒がない。まったく逆に、安らかな温かさがじんわりと広がっていく。幸せそうで無事で良かった、と。心から思うだけだ。


(あれ、あたし……?)


 そう思えた自分に、ミアはふと首を傾げる。裏切ったことへの罪悪感はもちろんのこと、ふたりが心の距離を縮めていくのが、以前は苦しくて、少し悔しくて悲しかったのに。ミアには救えなかった将軍を、あっさりと──ではないのだけど、もちろん! ──癒した奥方があまりに羨ましくて、眩しくて。でも、今はそんな感情は、微塵も湧いてこなかった。

 ミアが立ち止まった隙をようやく捕らえるかのように、奥方がおずおずと声を出した。


「あの、ミア……おかえりなさい」


 これだけは絶対に言わなければ、とでも言うかのような、決死の表情だった。そんな顔で、そんなことを言ってもらって、ミアは思わず苦笑してしまう。


「……はい。ご心配おかけしました。本当に申し訳ありません。。えっと……もう、大丈夫だそうなので……」


 彼女の処遇も、彼女の気持ちも。この屋敷で、この人たちの傍にいて良いのだと、やっと思えた気がした。


「あの! お茶を、淹れますから!」


 目の奥が熱くなるのが恥ずかしくて、ミアは慌てて厨房へと駆け出した。と、馴染みのある甘い香りが漂っているのにようやく気付く。奥方が、将軍のために焼いていた菓子の香りだ。ミアのために作って待っていたのか──さすがに、厨房に立ったのは奥方本人ではないはずだけど。


(あたしが帰ったからには、もう無理はさせないんだから……!)


 将軍も奥方も、身近でしっかりと見張らなければならない。慌ただしく屋敷の廊下を駆けながら、ミアはそう心に決めていた。

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