後日談・夫婦になる夜

 エリーゼがヴォルフの屋敷に来たばかりのころ、夫婦は別の寝室で休んでいた。お互いの罪を打ち明けてからは心の上での距離は縮まったし、寝る間際まで語らうこともあったけれど、夜が更けるとどちらからともなくおやすみ、と言って居間を後にするのだ。ヴォルフの気遣いもあれば、エリーゼの恥じらいもあっただろう。将来が見えない不安が、憂いなく抱き合うことを妨げてもいたと思う。

 例の夜会で夫婦そろって深手を負った後も、やはり同じ寝台を分かち合うことはできなかった。怪我人がひとつの寝台に並んで寝ていたのでは、手当てをする者がやり辛くて仕方ない。痛みと炎の記憶のせいでエリーゼはひどくうなされたし、火傷はまだ炎の中にいるかのように彼女の身体を熱で炙り苦しめた。そんな状態の者が隣にいては、ヴォルフだって心身を休めることができなかっただろう。

 それでも、エリーゼが半身を起こして本を読んだり刺繍をしたりできるくらいに回復すると、ヴォルフも彼女の枕元で長い時間を過ごすようになった。弱った身体に障ることがないよう、夜遅くまで一緒にいることはできなかったけれど、寝室を去る前には口づけや抱擁を交わすのが常になった。まるで、お互いの無事を何度でも確かめなければ安心できないとでもいうかのように。どちらからともなく、それは儀式のようになっていた。


 そしてエリーゼの傷がほぼ治り、日常生活に戻れるようになったころ──つまりは、寝室を分ける理由がなくなったはずのころ。夫婦の夜の過ごし方がどうなるかについては、まだ夫婦の間に探り合うような微妙な気配が残っていた。




 寝台にうつぶせになったヴォルフの背に、エリーゼはそっと指を這わせた。彼女よりも濃い色の肌、掌に感じる硬い筋肉の感触に鼓動が早まるのを感じるけれど、不埒な思いを抱いている場合ではない。これはあくまでも軟膏を塗ってあげているだけ、治療のための行為なのだから。


「ヴォルフ、眠そうね……?」

「……ああ……」


 ほら、エリーゼは胸が苦しいくらいに心臓が高鳴るのを感じているのに、ヴォルフは目を閉じて四肢を弛緩させている。意識をしてしまっているのは彼女の方だけで、夫は何も感じていないらしい。彼だって傷が癒えて間もなく、しかも将軍としての仕事も──屋敷で、かつ書類で済むことなら──少しずつ始めている。身体がなまるのが気になると言って、庭で剣を振ったりもしている。だから早い時間に眠気に襲われても無理もないはずで、妻としては気遣うのが当然のはずだ。


(妻……妻で、良いのよね……?)


 壮麗な大聖堂で結婚式を挙げて、王女にも認めていただいて。何より何度となく愛していると囁き合って、抱き合って口づけた。これを夫婦と呼ばずに何と呼ぶのだろう。彼女たちは、互いのために炎の中に躊躇わず飛び込むほどの想いがあるはずで──だから、同じ寝台で休むかどうか、なんて些末な問題のはずだ。同じ寝台で──休むというか、夫婦がするようなことをするかどうか、なんて。を女の方から望むのはあまりにはしたないし、ヴォルフは彼女を気遣ってくれているに違いないのだから。コンラートに負わされた心の傷と、あの夜に負った肉体の傷の、両方を。


(でも、最近口づけが短いのは気のせいかしら? すぐに離されてしまうのは……?)


 夫の温もりを思い切り堪能したいのに、満足する前にヴォルフは抱擁を解いてしまう……気が、する。あまりべたべたするのは彼の好みではないのか、汚れていると思われてしまっているのか。やっと憂いなく新しい生活を始めたはずなのに、エリーゼはいまだ悩みが尽きない。意を決して同じ部屋で休みたいと訴えても、朝を迎えてしまったことがあるからなおのこと。夫と語らいながら眠りに落ちて、夫の隣で目覚める、そのこと自体はこの上なく幸せだったのに、もっと、を望んでしまうのが浅ましい。


(余計なことを考えないで……薬を塗ってあげるの……)


 夫が目を瞑っているのを幸いに、エリーゼはふるふると首を振ってから手を再び動かし始めた。根気よく治療を続ければ、古傷もそれによる引き攣れも、改善する可能性が大いにあるということなのだから。




 アポロニア王女が遣わしてくれた医者は、ヴォルフの傷をひと目見るなり吐き捨てた。何てひどい、と。先日の夜会の際に負ったものの話だけではない。彼の半身にひどい痕を残した古い火傷について、あまりにもお粗末な処置だったと憤ったのだ。


『戦場のことだから、薬もろくなものがなかったからでは……?』

『それにしても、何年放っておいたのか……! 痕を残すためにわざと処置を怠ったかのようだ!』


 不思議そうに首を傾げるヴォルフと裏腹に、エリーゼはその医者と怒りを分かち合って歯噛みした。マクシミリアン王子なら、将軍に仕立て上げる者に医者や薬を手配するのは簡単なことだっただろうに、あの人はそれを怠ったのだろうとすぐに考えたからだ。地位だとか屋敷だとか妻だとか。そんなものを押し付ける前に、真っ先にすべきことだろうに。使い捨てる相手に手間暇をかけるのを惜しんだのか、以前ヴォルフが言ったように恐ろしげな傷痕がある方が望ましかったのか。いずれもありそうなことで、かつ許せないことだった。顔にも刻まれた傷痕を、ヴォルフは醜く恐れられるべきものと考えているのに。早くに適切な治療を受けられていたら、彼はもっと恐れられなくて済んだし、それによって自らを責める思いも軽減されたかもしれないのに!


『俺のことは今さら別に……。それより、エリーゼに痕が残らないようにしていただきたい』

『奥方については、もちろん最善を尽くします。ですが将軍、貴方ご自身についても同様に。もはや痛みはなくとも、死んだ皮膚は動きを妨げるはず。少しでも楽になる方が良いでしょう』


 そういう訳で、医者はヴォルフに毎日軟膏を塗ること、湿布を貼ることを命じた。しばらく経過を診て、薬だけではどうにもならないところは切除して縫い合わせて、も検討しなければならないのだとか。ヴォルフの負担にはなるのだろうけれど、古傷の引き攣れが治れば、戦場で彼が生き延びる可能性も高められるはず。

 だからエリーゼは、毎晩彼の手当てをする役目を引き受けた。恥ずかしがって遠慮する彼を押し切るようにして、強引に。せめて手が届かない背中の部分だけでも、と。ヴォルフに触れる時間を少しでも長くしたいという下心は否定できないけれど、それでも心から夫の身を案じてのことだ。──だから、このまま抱き寄せて欲しいとか、押し倒してくれないかとか、そんなことを期待するのは良くないことだ。


「……おやすみなさい、ヴォルフ」


 軟膏を塗り終え、湿布も貼り終えて声をかけると、夫からの返事はなかった。どうやら寝入ってしまったらしい。無防備な頬に口づけてから、エリーゼは彼の裸の背に、シャツと寝具をかけてあげた。

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