エリーゼの唇が頬を離れた後、ヴォルフは息を潜めて彼女が部屋を出るのを待った。彼女の指先を素肌に感じながら寝入ってしまうなどあり得ないということに、妻は幸いまだ気づいていないようだから。


 触れるだけの口づけの後。一瞬だけの抱擁をして、腕を解いた後。エリーゼがもの問いたげに見上げてくる目の意味が分からないほど、彼は愚かではないし枯れてもいない。彼ら夫婦を覆う懸念が去った今、心置きなく抱き合いたいとも思っている。ただ──かつて婚約者によって心身にひどい傷を負わされた彼女に、再び男の欲望をぶつけても良いものか、不安を拭うことができないのだ。

 エリーゼは美しく華奢で、それでいて身体は柔らかくて温かい。しかも、いまだに非常に不思議なことに、彼に心を寄せてくれている。美しく愛しい妻が無邪気に身体を委ねてくれれば、男の身体は反応してしまう。それを気付かせないように、最近のヴォルフは必死に自分を抑えていた。エリーゼは彼を拒まないだろうとは分かっていても、彼の方でしまわない自信がない。出会ったばかりの彼女の怯えようや、王宮を焼いた炎による火傷の痛々しさを見ているからこそ、彼女には二度と苦痛も恐怖も味わわせたくないと思うのに。


「ヴォルフ……」


 妻を気遣っているつもりなのに、彼の行動はそれはそれでエリーゼを悩ませているのが分かってしまうのが辛いところだった。彼の名を囁くエリーゼの声も、彼の髪に触れるかどうかのところで彷徨う指の気配も、彼女の不安を伝えてきていて。以前、同じ寝台で休みたいと言い出した時だって、勇気を振り絞ってのことだったのはよく分かったのに。手を出されることなく朝を迎えてしまったのは、女性にとっては屈辱だったのかもしれない。


 とにかく、寝たふりの甲斐なく、エリーゼが立ち去る気配はなかった。俯せの体勢の息苦しさ以上に、彼女の内心が思い遣られて──ヴォルフは、悩んだ末に半身を起こした。


「エリーゼ。寝ないのか……?」

「あ……」


 彼が眠り込んでいると信じ込んでいたのだろう、エリーゼは跳ねるように手を引いて、白い肌を耳や首まで真っ赤に染めた。仔兎のように逃げ出してしまいそうだったから、ヴォルフは慌てて跳ね起きて彼女の手を捕らえた。


「ご、ごめんなさい。起こしてしまうつもりではなくて──」

「いや……その、貴女にもすることが残っているのではないかと思ったから……」

「いいえ、私も寝るところだったの。あの、すぐに……」


 ヴォルフには咎める意図はまったくなかった。妻の期待を見て見ぬふりをしている彼にこそ明らかに非があるのだから。でも、彼女にしてみれば覗き見の現場を取り押さえられたようなものなのだろう。今にも泣きそうに歪められた顔が哀れで、そんな表情をさせてしまうことが申し訳なくて。つい──本当につい、ヴォルフの唇は勝手に動いてしまう。


「あとは寝るだけだったなら──このまま、ここでは……?」

「え」

「エリーゼ。貴女にいて欲しいと……思う、から……」


 エリーゼの青い目が驚きに見開かれた。次いで、恥じらいと、恐らくは期待によって悩ましげに潤む。化粧をしていなくても紅い唇が震えて、細い顎がごくわずかな動きで首肯を示す。そんな仕草のひとつひとつがこの上なく可愛らしくて愛しくて、ヴォルフは呼吸をするのも忘れるほどだ。

 寝台が微かに軋み、エリーゼがいかにも恐る恐る、といった様子でヴォルフに身体を寄せてくる。彼が腕を広げると、エリーゼは薔薇の蕾は綻ぶような笑顔で飛び込んで来た。愛しい温もりを抱き締めながら、ヴォルフは前に共に過ごした夜の辛さに思いを馳せる。妻の安らかな寝顔を前に自制心を試される夜は長く安眠とはほど遠く、甘い拷問のようだった。とはいえ今夜の過ごし方は、以前とは違うものになるはずだろう。彼の苦悩などくとしても、それではエリーゼはいっそう傷つくことになるだろうから。

 男として夫として、覚悟を決めるべき夜が来たのだろう。




 彼にしがみついて離れようとしないエリーゼをどうにか宥めながら、ヴォルフは寝室の灯りを落とした。室内が薄闇に沈むと、彼も少しだけ余裕を取り戻すことができる。妻が何と言ってくれようと、彼は自分の顔が醜いと思っている。まして情欲に歪んだ時は、見るに堪えないけだものの姿になっていることだろう。それをエリーゼに見せずに済むなら、まだしも気が楽だった。


「ヴォルフ……あの、私で、良いの……?」

「それは俺の台詞だ」


 それでも、たとえ暗闇の中でもエリーゼに向き合うのはまだ躊躇われて、ヴォルフは彼女の細い身体を腕の中に抱き締めて閉じ込めた。身体が密着することで、彼の熱も興奮も高まる。エリーゼの耳元に囁く声は、我ながら上擦って余裕のないものだった。


「すまなかったと、不安な思いをさせたとは分かっているんだが。貴女に……もう、痛い思いや怖い思いをさせたくなかった」

「ヴォルフ……」


 これだけ密着した以上は、彼の昂りも彼女に伝わってしまっているだろう。彼が懸念する痛みや恐怖が、何を指してのことなのかも。エリーゼは一瞬だけ身体を強張らせ──けれどすぐに、力を抜いて彼にもたれた。滑らかな頬が彼の胸に寄せられ、ようやく揃い始めた髪と甘い吐息が彼の肌をくすぐる。それだけの刺激がヴォルフをどれだけ煽るのか、彼女は知らないのだろうか。暗い中でも輝くような青い目が、妖しく熱を湛えて彼を見上げる。その蕩けるような眼差しもまた、彼の理性を危うく溶かしていくというのに。


「でも、火に焼かれるより痛いことも怖いこともないと思うわ……?」


 だから好きなように、と。言外に囁かれて身体を委ねられて、ヴォルフは心臓が破裂する思いを味わった。これほどの信頼と愛情を寄せられて、応えないままでいるなどもはやできない。だが、それでもひと欠片だけ残った理性が、決して乱暴にしてはならないと訴えていた。


「エリーゼ。今夜は……『嫌』とか『駄目』とか『痛い』とか──そういうこと以外は言わないようにしてもらえるだろうか」

「そんなことは言わないわ、私」


 できるだけそっと寝台に寝かせて覆いかぶさると、エリーゼは心外そうに目を見開いた。彼がどうしてそのようなことを願うのか、きっと分かってはくれないのだろう。今この瞬間でさえ、夫がどれほどの忍耐力を持って人として話しているのか、彼女を貪るだけの獣に堕ちまいと必死なのか、妻は知らないのだ。


「では、どうか何も言わないでいて欲しい」


 何も言えないように口づけで塞いでも、唇を離した途端に不思議そうな問いかけがエリーゼの口から零れ落ちる。


「……『好き』とか『愛している』も?」

「ああ、頼む」


 再び口づけながら告げた声の調子は、いっそ懇願と言うべきものだっただろう。


「貴女が何か言うたびに、我慢できなくなってしまいそうなんだ」


 そう囁いてから抱き締めると、さすがに必死さが伝わったようだった。ヴォルフの肌に伝わるエリーゼの熱が一段と高まったような気がして──そして、小さく頷く気配が寝台の中の闇を少しだけ揺らした。

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