妻としてできること
甘い香りと苦い思い
火に近づけて十分柔らかくした後でも、ボールいっぱいのバターにふんわりと空気を含ませるのはなかなかの力仕事だった。額に浮かんだ汗を拭い、息を軽く弾ませて、それでもエリーゼは痛み始めた腕を叱咤してバターをかき混ぜる。もたもたとしていると仕上がりの味にかかわるのだ。それに、いつまでも厨房を独占している訳にはいかない。
ヴォルフリート将軍の屋敷の厨房にいるのは、今はエリーゼひとりきりだ。これがトラウシルト家だったら、
『奥様が──ご自身で?』
『は、はい……お邪魔でなければ、許していただけるなら、なのですけれど……』
将軍のために菓子の差し入れをしたい、と。最初にエリーゼが申し出た時に、厨房を任せられている料理人は目を丸くしていたものだった。奥様、と呼びかける時もどこか戸惑った風で、トラウシルト家から押し付けられた女をそう呼んで良いのか悩んでいるのは明らかだった。だから、相手の返事を待つまでの数秒の間、エリーゼは精一杯、身体を縮こまらせて目を伏せていた。
(きっと、おかしいと思うのでしょうね……)
この屋敷の者たちは、エリーゼはトラウシルト家の手先で、ヴォルフリート将軍に対して悪い企みを抱いていると考えているはずだ。そもそも、
『奥様にそんなことはさせられません。ヴォルフ──ええと、将軍もそう言っていたでしょう。寛いで、お好きに過ごしていただければ……』
大人しくしていろと一喝しないだけ、その料理人はとても優しいと思えた。将軍の忠告を受けた後でも屋敷に残ったのは、兵士上がりの者が多いという。生死の境を共にした記憶と近しい階級の出自であるがゆえに、彼らの将軍に対する忠誠は篤い。そしてエリーゼにとっては良いことなのかどうか、名家の出身だと信じられている彼女に対して、どういう態度に出れば良いのか決めかねている気配があった。
『ありがとうございます。あの、でも、何もしないのでは申し訳ないので……』
怒鳴ったり睨まれたり舌打ちをされたりするのではないから、エリーゼはどうにか食い下がる勇気を振り絞ることができた。
寛いでいろ、というヴォルフリート将軍の意向は、多分悪意のないものだ。屋敷の仕事などしなくて良いから、彼女の望みを考えておけ、ということなのだろう。彼のことをもっと知りたい、などというぼんやりとしたものではなくて、もっとエリーゼの行く末に関わることを、と。
でも、どれだけ考えてみても、彼女自身のことについて望む気にはなれなかった。エリーゼはそんな強欲が許されるような女ではない。いや、将軍が望まないのに詮索めいたことをしようというのも、とてつもなく図々しいことなのかもしれないけれど。
(でも、これまで通りではいけないの、きっと……!)
将軍の──恐ろしいけれど──穏やかな、諦めたような微笑を見て、何も言わず何もせずにやり過ごそうとするのは間違っているのではないか、と思ったのだ。本当に何もしなかったエリーゼと、犠牲と引き換えであっても勝利をもたらしたヴォルフリート将軍を同じように語るのもまた、不遜な思い上がりではあるのだろうけれど。彼の功績が大きいと思えばこそ、優しさや思い遣りを確かに感じればこそ、飢えた野獣のように語られる現状が腑に落ちないのだ。せめて何かできることは、と考えた末に、どうにか思いついたのが菓子作り、だったのだ。
『余計なものには手をつけませんし……何なら、見張っていていただいても構いませんので……』
『いや、そこまでは……』
毒を入れるのを警戒されているのでは、と思いついて言ったのは愚かなことだと、料理人の困惑の表情がすぐに教えてくれた。エリーゼのせいで人手が減ってしまった屋敷の中で、彼女の見張りのために人手を割くなど無駄でしかないだろうに。
『──じゃあ、出来上がりを味見させてもらう、ってことでどうですか? 要は旦那様が変なものを食べることにならなきゃ良いんですから』
煮え切らない押し問答を見かねたのか、高い声が割って入った。ヒバリのように澄んでいるのに、どこか尖って苛立った気配があるその声は、エリーゼには既に馴染みのものだった。決して優しい調子の声ではないのに、聞くと安心できるのは少し不思議なことだった。結局のところ、彼女は助け舟を出してくれたから、だろうか。トラウシルト家でのことのように、不出来をひたすら
エリーゼは口を挟んだ少女に目を向けると、ごく自然に微笑んだ。
『ミア。ありがとう。それなら……?』
どうでしょうか、と。途切れさせた言葉の先で問われて、料理人も表情を緩めて頷いた。彼の方でも、落としどころを見つけかねていたのだろう。
『ええ、構いませんでしょう。火傷などなさらないようにお気をつけて』
『片付けもご自分でなさってくださいね。私たちは忙しいんですから!』
エリーゼの反応が物足りなかったのだろうか。ミアは、やはり見慣れてしまった、唇を尖らせる表情を見せた。とはいえ言われたのは当然のこと、可愛らしい少女に指先を突き付けられたところで、エリーゼの笑顔は崩れなかった。
『もちろん。慣れているから大丈夫よ』
『え……?』
ミアたちには貴族の令嬢に見えているのかもしれないけれど、実家でのエリーゼは召使も同然だった。一応は主家の血を引いているだけに持ち場も役目もはっきりしなくて、その場その場で人手が足りないところに呼びつけられるのが常で。だから洗い物も水仕事も日常のうちで慣れたものだった。
ミアは、片付けを命じられたら声高に反論してやろうとでも言うかのように肩に力を入れていた。それが思わぬにこやかさを向けられて、料理人の男とふたり、不思議そうに顔を見合わせていた。
バターが十分柔らかくなったら、砂糖を擦り混ぜる。次は卵。先に卵黄を混ぜてから、泡立てた卵白を。そして小麦粉と香辛料を少し。さらに蒸留酒に漬けておいた干した葡萄や無花果を混ぜる。卵白の泡を潰さないようにそっと、ざっくりと。
実のところ、エリーゼは実家にいる間は菓子を作ったことはなかった。バターや卵や砂糖をたっぷりと使った贅沢な甘味は屋敷の主一族の口に入るものであって、それを作るのは経験ある料理人だけに許された名誉なのだ。ただ、水を汲んだり厨房の隅で野菜を洗ったり皮を剥いたりしながら、エリーゼはずっと作り方を盗み見ていた。自分が味わうことはできないのも、意地汚いと咎められかねないのも百も承知で、それでも甘い香りはあまりに魅力的に誘ってきたから。
(大丈夫……だんだん上手くなってきているし……!)
出来上がった生地を型に流し込んでオーブンに入れて、エリーゼはやっと息を吐いた。この屋敷に来てからもう十日あまり、こうして菓子を作るのも初めてのことではない。最初こそ人に出すのは憚られるような、材料を無駄にしてしまって申し訳ないようなものしかできなかったけれど、もう手つきも
小鍋に蒸留酒を移して火にかけたエリーゼの耳に、抑えた声が届いた。
「酒……? 何に使うのかな」
「まだ砂糖を入れるのか」
「良い匂いがしてきたな。そろそろできると思ってきたが」
厨房の入り口に、使用人が集まって噂している気配を感じてエリーゼは背筋を正した。
(やっぱり、見張らないといけない、でしょうね……)
将軍に出す前に、焼きあがった菓子は毎度毒見してもらっている。怪しいものを入れてはいないと確かめてもらった方が、エリーゼとしても安心だ。でも、遅効性の毒だったら、などと疑い出せばキリがない。だから使用人たちが作業の段階でも見張ってやろうと考えるのは当然だ。敵意や警戒を露わにされていると思えば怖いけれど──
(後ろめたいことは、していないもの)
怯えた顔を見せてしまっては、それこそ疑いを深めるばかりなのだろう。俯いてやり過ごすことだけを考えるのはもう終わり、と。エリーゼは決意したはずなのだ。だから、怖くてもはっきりと声を上げなくては。
お腹に精一杯力を込めて、エリーゼは入り口の方に呼びかけた。
「あの、お酒を煮詰めて砂糖を入れて、シロップにするんです。それで、焼き立てのところに塗ると、生地に染み込んで良い香りになるはずなのですわ」
彼女が聞いていたことに、彼らは気付いていたのかどうか。突然話しかけてきたのを、不躾だとか不快だとか思わないのかどうか。緊張に身体を強張らせたのは、ほんの一瞬で済んだ。
「へえ、それは美味そうだ」
「もう入っても良いですか、奥様?」
「お疲れでしょう。片付けはやりますよ」
「い、いえ……私が勝手にしていることですから……」
厨房の入り口から覗いた彼らの顔は、一様に朗らかに見えた。奥様と呼んでくれるのは渋々ながらではないのか、片付けと言って不審なところがないか
「いつもお相伴にあずかってますからね、何でもないですよ」
「その細腕ではお疲れでしょう。ヴォルフに会う前に休むと良いです」
粉に塗れた道具類は、エリーゼが手を伸ばす暇もなく男たちによって取り上げられていた。さらに椅子まで勧められては、彼女には断る言葉は思いつかない。
「は、はい。あの……ありがとう、ございます……」
「いいえ。……あの狼将軍に菓子を作ってくれる人なんて、思ってもいなかったのでね」
厨房に上がり込んだ使用人のひとりが呟いたのは、だからそんな女は信用できない、ということなのだろう。無理もないことだから怒ったり悲しんだりする気にはなれない。ただ──彼らでさえもヴォルフリート将軍は恐れられて当然の存在だと考えているようなのは、寂しいと思う。
(今日は、何をお話できるかしら……? あの方に関わることを、聞いても良いのかしら……)
オーブンからは甘い香りがいよいよ強く漂い始めている。焼きあがったらシロップを塗って切り分けて──毒見の後で、茶器の準備と一緒に将軍のもとへ運ぶ。まるで
それでもあの方はまだエリーゼに心を開いてくれてはいなかった。
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