ぎこちない夫婦
エリーゼが運んだ焼き菓子を口にしたヴォルフリート将軍は、あからさまに眉を顰めた。
「……お口に合いませんでしたか……?」
焼き上がった菓子に蒸留酒のシロップを塗ると、ふわりと良い香りが漂ったものだ。バターの香りに、蒸留酒の香りが深みを添えて。甘過ぎないのが良いと、厨房では好評だったけれど、肝心の人に気に入られないのでは意味がない。危うく、肩を落としそうになったのだけど――
「いや。美味い」
ごく真面目な顔ながら、将軍がふた切れ目に手を伸ばし、躊躇いなく咀嚼したのを見て、エリーゼはやっと胸をなでおろすことができた。
「良かった。少しは上達しているでしょうか」
「最初からお上手だった。ただ、回を追うごとに好みを当てられて驚いたというか」
そう、決して成功とは言えなかった最初の菓子でさえ、将軍はすべて平らげてくれていたのだ。味に頓着しない方だからこそ、今日はよほどの失敗だったのかと恐れたのだけど──むしろ逆で、気に入ってくれたらしい。そう気付いて、エリーゼは自然と微笑んでいた。
「ミアにも教えてもらいましたから。旦那様は国境の近くの出身でいらっしゃるから、ファルケンザール風の味がお好みだと」
「ああ、懐かしい香りだな……」
将軍の書斎は、もはやエリーゼにとっては見慣れ、馴染んだ場所だった。仮にとはいえ夫になった方のことをもっと知りたい、という願いを叶えてもらうために、彼女は一日の多くの時間をここで過ごすようになっていた。そんな中で差し入れに菓子を作るうちに味の好みも分かってくるし、その他にも将軍についての細かな知識はかなり増えた。例えば、最初の夜に本など読まないと言っていたのは謙遜で、将軍は多くの時間をこの小部屋で過ごしていること。地理や歴史を紐解いて知識を研鑽することもあれば、手紙を読んだり書いたりすることもある。……そんな、表面だけの知識が増えたからといって、何になる訳でもないのだけれど。
「ゆっくりしていれば良いのに。貴女は使用人ではないのだから」
「いいえ、私が好きでやっていることですから」
大聖堂で婚礼を挙げたからと言って、エリーゼはヴォルフリート将軍の妻では決してない。旦那様と呼ぶのだって、屋敷の主に対して敬意を表すためだけで、夫を指している訳ではない。寝室は別々のままなことに彼女は密かに安堵しているし、将軍の方からも彼女に触れることはない。気軽に言葉を交わすことはできるようになったけれど、将軍は相変わらず右の方ばかりを見て彼女と話す。火傷の痕をエリーゼが怖がるだろうと、信じ込んでいるのだ。
「お気持ちは嬉しいのだが……」
無理をしなくても良いのに、と。将軍の言外の言葉がエリーゼの胸に刺さる。望んで共に時間を過ごしているのだと何度となく言っているのに、どうしても本当の意味で伝えることができていないのだ。
「あの、ご迷惑でしたら──」
「いや、決してそんなことはないのだが」
将軍は困ったように笑い、書斎に気まずい沈黙が落ちた。トラウシルト家にいた時と違って、上手く受け答えができなかったとしても叱責されることも打たれることもない。でも、信じてもらえない、想いが伝えられない辛さは今の方が苦しいかもしれない。
(コンラート様のことを打ち明ければ良いの……?)
辛さに耐えかねて、そう思うこともある。あの方がエリーゼに何をしたかを知れば、将軍も少しは気が楽になるだろうか。彼女の言葉を、信じてくれるだろうか。迷いに迷って──けれど、いまだに言い出すことはできない。ヴォルフリート将軍に嫌われるのも軽蔑されるのも、怖いから。
「……私は、このお屋敷に来られて良かったと思っています」
「嬉しいお言葉をいただけたな」
精一杯の好意を伝えようとしても、礼儀正しい相槌だけで返されて、エリーゼは溜息を呑み込んだ。そんなことをしては、ますます信じてもらえなくなってしまう。
「使用人たちとは馴染んでいただけただろうか。ミアとは、年も近いと思うが」
「はい。とても良くしていただいています」
嘘とは言わずとも、必ずしも真実ではないことをエリーゼは述べた。こんなことだから、いつまでも将軍と──夫であるはずの方と、打ち解けることができないのだろうか。
この屋敷の使用人たちは、トラウシルト家の者たちよりはよほどエリーゼに礼儀正しく接してくれる。けれどそれは束の間滞在する客人に対しての礼儀であって、彼女が屋敷の住人として認められた訳では決してないはずだ。何より、彼女は屋敷の女主人に相応しくない。使用人を統括して家政を取り仕切ることなどできない。手紙をしたためる将軍が、時に眉を寄せ、時に溜息を吐くのを止めることもできない。何が、あるいは誰が彼にそうさせるのかも分からない。
「人手は少なく見えるだろうが、よく仕えてくれる者ばかりだ。何かあれば遠慮なく頼ると良い。皆も貴女を手伝いたがっている」
「ありがとうございます。はい、何かあれば……」
これもまた、嘘だ。頼る、というか……エリーゼの方から、屋敷の使用人たちを煩わせるようなことを言い出せるはずもない。身の回りのことも、できるだけミアに頼まずに済むように努めているくらいなのだから。
王女の庇護を得ることができず、しかも、トラウシルト家の不興を被っている将軍のもとに残った使用人たちは、それだけ忠誠心が篤い者たちなのだ。ミアが毛を逆立てた猫のように接してきたのを初め、彼らはエリーゼを心から信用している訳ではないだろう。その意味でも、彼女は「奥様」は務まらないのだ。焼きたての菓子を振舞ったのも、毒見の意味を兼ねてのことでしかない。
(大奥様は、私を――旦那様を、どうするおつもりだったのかしら……)
疑われるようなことはないと、自分でも言い切ることができないのが辛かった。エリーゼはギルベルタから何も聞かされていないけれど、だから何も企んでいないと信じることなどできはしない。エリーゼの意思など、あの老貴婦人は慮ってくれないだろうから。将軍自身が、無辜の罪を着せられることを想定しているかのようだった。エリーゼが菓子の甘い香りを味わう今、この時でさえ、ギルベルタはこの方を追い詰
めようと企みを巡らせているのかもしれないのだ。
だから――エリーゼがヴォルフリート将軍の妻になることにどんな意味があるのか、彼女が知ることもできないままだ。焼きたての菓子を挟んで談笑しているところだけ切り取れば、新婚の夫婦に見えなくもないかもしれないけれど。彼女はこの屋敷では何者でもない。妻などとは贅沢かもしれないけれど、何かしらの役割を務めたい、この方の役に立ちたいと、切に願っているというのに。
「――今度、人と会ってもらえるだろうか」
「はい。どなたでしょうか」
珍しく、将軍の方から話を振ってくれたので、エリーゼは沼のような思考を振り払って笑顔を浮かべた。妻とも呼べない女を、誰にどう紹介するのかは不思議だけど、この方のことをより知ることができると思ったのだ。でも――
「知人なのだが、貴女の助けになれるかもしれない。俺と、王女殿下を結婚させようとしていた人物だからな」
「え――」
将軍の穏やかな口調にも関わらず、エリーゼは笑顔を凍り付かせた。トラウシルト家で教えられたことからすれば、その人は王家を軽んじる不届き者だ。そして将軍の立場になってみれば、望まない縁談を仕組もうとしていた人だ。どちらにしても、会いたいと思えるような相手ではないはず。なのに、将軍はいかにも彼女のためだと言うように熱を込めて続けるのだ。
「だから、貴女がこの屋敷を出るのは喜ぶはずだ。良い落ち着き先を見つけてくれるだろう」
「そう、ですか……」
彼は、エリーゼを屋敷に置いておきたくないと思っているのだ。このひと時が許されているのも、思い違いで娶ってしまった罪滅ぼしのようなもの。それか、小娘の気が済むまで付き合ってやろうということでしかないのだろう。当然のこと――むしろ、仮にもトラウシルト家の者に対しては過分な気遣いですらある。でも、彼にとって無用の存在だと言われているようで気落ちしない訳にはいかなかった。
エリーゼが喜ばないのが意外だとでも言うように、将軍は宥める調子の声を作った。
「……ずっとこの屋敷にいる訳にもいかないだろう。俺に何かあれば巻き込みかねないし。──それとも、トラウシルト家に戻る方が良いか?」
「いえ! 大奥様――ヒルシェンホルン夫人は、お許しにならないでしょう」
「ならば、あの女性は無視して動くしかないな」
「……はい」
エリーゼは、将軍にも実家での扱いについて多くを語っていない。コンラートが話に出てしまうからでもあるし、恥じ入るべき出自のことを、言えるはずがないからだ。でも、良い扱いでなかったことは察してくれているようだった。実家以外の場所に、というのは、この方なりに親身にエリーゼのことを考えてくれているということのはず。それだけで、どれほど嬉しいことだろう。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
だから、これ以上を望むことはできない。もっと貴方の傍にいたい。役に立ちたい。支えになりたい。口にしたところで彼女には荷が重すぎるし、将軍を困らせるだけなのだろう。まして、好意を伝えるなんて迷惑でしかないはず。だから、エリーゼは目を伏せて呟いた。結局、また実家にいた時と同じ振舞いになってしまっているのが悔しかった。
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