熱と炎の中で
ここまでの道のりで、アポロニア王女から借りたドレスはあちこちが裂け、ほつれ、裾は地に触れて擦り切れていた。貴婦人のドレスというものは、走り回ったり屋外を長く動いたりすることを想定していないから当然だけど、最上の素材と技術で作られた品の無残な姿に、エリーゼの心は痛んだ。彼女に
(やはり私は、不出来な女だったわ……)
もっと聡明に、もっと毅然と振舞えれば良かった。自身に対して忸怩たる思いはあるけれど、今、この場にいることを後悔もしない。広間で震えて、ただ凶報を待つだけの恐ろしい時間など、考えるだけでも耐えられない。
全てが上手く行くことを、信じるしかない。この夜を生き延びることができたなら、また学ぶことも成長することもできるだろうから。
近くで見上げた武器庫は、単なる倉庫などではなかった。ヴォルフの屋敷よりもなお大きく、王宮の一角に相応しい装飾も施されたその建物は、華やかな要塞とも呼べるだろう。剣や銃だけでなく砲台も収納されているなら、そしてそれらが儀式に関わるものでもあるなら、規模にも華やかさにも頷ける。この建物の中から、たったひとり、捕らえられた人を探さなければならないのだ。
ミアの言っていた通り、武器庫の入り口の部分は崩れ落ちていた。まだ舞い上がる土埃で軽く
「なるほど、こういうことね……」
入り口の付近に爆薬を仕掛けたのが明らかな有り様は、ヴォルフに罪を擦り付けるつもりならいかにも不審だ。自分がいる建物の出入り口を自ら塞ぐなど、どのような手違いでもあり得ない。この辺りに追手も見張りも見えず、調べに訪れる者さえいないようだったのは、この不自然さを見咎められないようにという、マクシミリアン王子の手回しなのだろう。
(それに、危険だから、ね……)
武器庫から火の手が上がれば、最初に崩れたのが入り口だけかなどはどうでも良いことになるだろう。マクシミリアン王子がヴォルフの「死体」を探させるとしたら、その後で良い。手の者を炎で無駄に失わないためにも、この一帯は不思議なほどに誰もいないのだ。
誰も見張っていなくても成功を確信するほどに、マクシミリアン王子は綿密な仕掛けを施しているのだろうか。
(いいえ、でも、私がこうするのは予想していないはず……!)
何も仕掛けを止めなくても良い。武器庫に収蔵されているのがどれほど由緒ある貴重な品だとしても、建物自体に価値があるとしても、エリーゼには関係ない。燃えても爆破されてしまっても、どうでも良いのだ。ただひとり、ヴォルフを助け出すことさえできれば良い。そう、自分に言い聞かせながら、エリーゼは建物の壁を伝って窓を探した。
「あった……!」
入り口の崩壊は、武器庫の壁全体に影響を及ぼしていた。夜の闇の中で、壁のひび割れは一層黒々と広がり──その中には、窓枠をひしゃげさせ、建物に新たな出入り口を生み出していたものもあったのだ。
割れたガラスを、なるべく切り口に触れないようにして窓枠から叩き落とし、よじ登る。哀れなドレスの絹の生地が、壁で擦れ、ガラスで裂かれて悲鳴のような音を立てた。引っかかったところは手で引っ張って裂いて。そうして、エリーゼは武器庫の内部に転がり込むことに成功した。
「熱い……」
第一歩の成功に安堵したのもつかの間、彼女の額から汗が滴り落ちた。緊張による冷や汗でもあり、運動によってかいた汗でもある。でも、何よりもまず、武器庫の中は蒸し暑かった。火にかけたオーブンのように──火を放つ仕掛けは確実に動いて、ヴォルフを蒸し焼きにしようとしているのだ。
「ヴォルフ! どこなの!? 聞こえたら返事をして!」
ここに至って人の耳を憚る必要もないだろうと、エリーゼは声を張り上げて大切な夫の名を呼んだ。ドレスが裂けてしまったお陰で、幾らか走りやすくなったのはせめてもの救いだった。瓦礫やガラスの破片を恐れて、靴を脱ぐことこそできないけれど。
場違いに高い自らの足音を聞きながら、走る。見渡す限りの視界に映るのは、整然と並ぶ槍や剣、精緻な彫金を施された鎧ばかり。いかにも古めかしく時代遅れな品々は、武器というよりも骨董品や美術品として保管されているのかもしれない。
(砲台は、奥……!)
外から見た建物の様子を思い浮かべながら、エリーゼは方向に見当をつけて、急ぐ。実用品だとしても美術品だとしても、時代や種類に従って武器が整頓されているのは想像に難くない。ならば、砲台が収められているのはもっと時代が下った「武器」を収める一角のはずだ。
武器庫の中には、舞踏会が催される広間のような空間もあった。古い時代の将軍が駆ったような、馬に引かせる戦車が何台も並んでいる。何かしらの儀式では、今も使われることがあるのだろうか。車体に刻まれた怪物が、侵入者であるエリーゼを追うように光る──その光源は、赤い炎だ。
「火が……!」
今や、肌で感じる熱だけでなく目によっても、武器庫を襲おうとしている炎の存在は明らかだった。天井と壁の際を、竜の舌のような炎が舐め始めている。走るエリーゼのドレスに火の粉が舞い降りては黒い焦げの染みを増やしていく。時には、燃え広がるのを防ぐために、生地を叩いて消さなければならないほど。空気も熱く熱されて、息を吸うたびに喉と肺が焼けるような思いがする。
「ヴォルフ! お願い! 声を上げて!」
エリーゼの声はいつしかぱちぱちと炎が爆ぜる音に掻き消されがちになった。自分自身にさえ聞こえづらい声を、果たしてヴォルフが聞くことができるのか。彼は意識がある状態なのか、そもそも本当にここにいるのか。でも、引き返すにももう退路は炎に包まれている。進むしかない──でも、目の前の扉の取っ手も炎を映して赤く燃えている。金属が色を変えるほどの熱ではないとしても、人の肌が触れて無事でいられるとは思えないけれど──
「ああああああっ!」
熱にも痛みにも構わず、エリーゼは身体で扉を押し開けた。蝶番も熱に脆くなっていたのか、扉はあっけなく倒れ、エリーゼは火のついた木材の上で転がることになった。石造りの床も、既に火で熱せられて、炙られる肉の思いを味わわさせられる。それでも何とか、髪や衣装に着いた火を消して、また前を見る。どれだけの距離を進み、幾つの扉を越えれば、ヴォルフと会えるのだろう。その前に、火に巻かれて息絶えてしまうだろうか。焼け、焦げる臭いは鉄や木材だけが発しているのではない。エリーゼの髪も肌も衣装も、等しく炎の愛撫を浴びている。
(もう一度……?)
次の扉が、黒い煙の向こうに聳えてエリーゼの行く手を阻んでいる。また熱と痛みと恐怖に耐えて体当たりをしなければ進めない。息を整え、覚悟を固めようとしていた、その時だった。
扉が、エリーゼのいる側に倒れてきた。炎と熱の勢いに、押し負けたのだろうか。熱風に襲われるのを覚悟して、息を詰めて目を閉じる──エリーゼの耳に、自らの名を呼ぶ声が届いた。
「エリーゼ……!」
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