握りしめた手

 熱さのあまり、息苦しさのあまりに、都合の良い幻かと思った。ものが焼ける音、崩れ落ちてくる音を、良いように聞き違えたのかと。目を開けて、炎を越えて近づいてくる人影を見てもなお、炎の揺らめきに見たい影を見出しているのではないかという疑いは拭い難かった。


「ヴォルフ……本当に?」

「本当に、貴女だったか……!」


 それは、「彼」の方でも同じだったのだろうか。本当に、と問う声が重なった。二度も聞こえるのは──幻聴では、ないだろう。何よりも、「彼」が、ヴォルフが、黒煙をかき分けて手を差し伸べてくれている。狼の仮面は失われ、晒された素顔には殴られたような痕も見えるけれど。それでも、彼だ。生きている彼が、エリーゼを抱きしめてくれる。熱気によってではなくエリーゼの喉が詰まり、涙が──瞬時に乾いてしまうけれど──溢れる。


「もう、会えないかと思いました」

「俺もだ。でも、声がしたから……!」


 確かに、ヴォルフだった。無我夢中で手を伸ばせば、逞しい身体がそこにいる。声も姿も匂いも、間違いなく彼のもの、エリーゼの大切な夫のもの。声が聞こえた、と言ってくれた。炎の中でも挫けずに声を張り上げたのは、ならば無駄ではなかったのだ。


 けれど、再会の感動に浸る暇など許されず、エリーゼはすぐに悲鳴を上げることになった。礼服を纏っていたはずのヴォルフの上半身が、ほぼ裸になっているのに気づいたのだ。浅黒い肌に残るのは、かつて刻まれた古傷だけではない。明らかに生々しく、あるいは爛れ、あるいは水膨れを生じさせた火傷が何か所もある。エリーゼよりもよほど深い火傷を、ヴォルフは既に負っていたのだ。


「ヴォルフ。酷い怪我をしている」

「縛られていたが、炎がかえって幸いしたな。焼き切ることが、できた」

「そんな……」

「貴女がいるなら、諦めてはならないと思ったからな」


 何でもないことのように言って笑うヴォルフに、エリーゼは言葉を失った。炎は熱くて痛くて恐ろしいものだった。この短い間でも思い知らされた。まして、かつてひどい火傷を負わされたこの人が、自らの肉を焼いてまで戒めを逃れることができたなんて。


(私のために? そんな、まさか……)


 驚きのような恐れのような喜びのような感情に溺れそうになったエリーゼは、けれど煙に咽て猶予のなさを思い出した。肌をひりひりと焦がす熱気は、四方から忍び寄ってきている。この場所で、ふたりして焼け死んでしまったら何の意味もない。無事に脱出して──全ては、その後のことだ。


「──入り口は塞がれています。爆発で……どこか、窓を探さないと……!」

「そうだったか」


 離れていた間にあったこと、マクシミリアン王子のこと、ミアのこと。話したいことは山ほどあったけれど、エリーゼはその中でも今言うべきことだけを早口に述べた。事態を素早く諒解したのだろう、ヴォルフは小さく頷くと、エリーゼの身体を腕に抱え込んだ。


「大丈夫だ。ここには前にも来たことがある。必ず、貴女を無事に帰す」

「貴方もよ……!?」

「ああ、無論。ふたりで──こっちだ」


 自分だけを生かすつもりなのかと一瞬恐れたエリーゼに、ヴォルフはまたさらりと頷いた。炎に呑まれつつある四方を見渡して──エリーゼが来たのとは別の方向を目指す。退路は、既にないのだ。


「顔を伏せて。煙をなるべく吸うな」

「は、はい……!」


 ドレスの裾を裂いた生地を渡されて、口元にあてる。いつの間にか靴が脱げていた素足に、焼けた石が熱い。走り方の不自然さを悟られたのか、駆け出して数歩でエリーゼはほとんどヴォルフに抱えられる格好になった。

 燃えながら落ちて進路を塞ぐ木材や石材を躱し、時には身体を掠めるそれらによろめきながら、炎の中を進む。エリーゼにはもはや方向は分からなかったけれど、ヴォルフに引きずられるままに。これでは、どちらがどちらを助けに来たのか分からない。


(足手まといに、ならないように……!)


 ヴォルフの重石になることがないよう、エリーゼは必死に足を動かした。熱にも痛みにも構わずに、ただ、隣にいるヴォルフと二度と離れることがないように、それだけを念じながら。


「ヴォルフ──窓……!」


 そしてついに、外へと繋がる窓を備えた壁にまで辿り着く。けれど、火が回った窓枠は、炎の檻も同然だった。ガラスこそ既に割れ落ちているけれど、人の身体が通り抜けられる隙間があるようにはとても見えない。疲れきって、絶望に喘ぎ声を漏らしたエリーゼは、けれどヴォルフの力強い抱擁によって応えられた。


「諦めるな。道は切り開けば良い。道具は、幾らでもある」

「ヴォルフ……?」


 追いすがろうとするエリーゼをそっと制して、ヴォルフは戦斧を手に取った。そう──武器庫であるからには、武器はあって当然だ。でも、戦斧の柄に施された華麗な装飾も、灼熱によって色を変じているのだ。それを躊躇いなく掴んだヴォルフの手から煙が上がるのを見て、エリーゼの喉が先ほどより鋭い悲鳴を上げる。それすらも、燃え盛る炎の轟音に掻き消される。

 戦斧を振りかぶったヴォルフは、それを窓に叩きつけた。二度、三度──窓枠がひしゃげ、割れ、外側に飛ぶ。外のひんやりとした空気が流れ込み、屋内の火を一段と高く舞い上がらせる。


「エリーゼ! 早く!」


 エリーゼを振り向いてヴォルフが差し出した手は、皮が剥がれて赤く濡れていた。思い切り掴んだ時の痛みは、エリーゼには想像もできない。そんな痛みを、彼女がヴォルフに与えるのは耐えがたい。でも、躊躇わない。


「はいっ」


 ふたりの手が握り合った瞬間、ヴォルフの噛み締めた唇から呻き声が漏れた。彼の負担を少しでも減らそうと、裸足になったエリーゼの足が床を蹴る。ずるりと、足の裏が剥ける感覚がある。彼女の身体が宙に浮き──ふたりして跳ぶ。窓の向こう側へ、炎を逃れて、静かで冷たい、夜の闇へと。


「きゃ──っ」


 エリーゼの視界で、星空がぐるりと回転した。燃え盛る武器庫が目に入ったのが、一瞬。そして、全身を襲う衝撃。地面に叩きつけられたのだと、夜露に濡れた芝の感触で知った。


「エリーゼ、もう少しだ……距離を、取らないと……!」


 彼女が衝撃から立ち直るか否かのうちに、ヴォルフはもう彼女の腕を引きずって進み始めている。背後からは、巨大な質量が崩れ落ちる音が轟いて耳を塞ぐ。武器庫全体に火が回り、建物自体が崩壊しようとしているのだ。早く逃げなければ、焼死は免れても瓦礫に圧死させられてしまう。


(ああ、でも、もう……!)


 ヴォルフの手助けがあってなお、エリーゼの身体はもうまともに動いてはくれない。地面に膝をつく。喘いで顔を上向けると、ヴォルフの必死の顔が見下ろしている。彼と共に行かなければいけないと、そう思うのに。

 置いて逃げて、と。ひび割れた唇で訴えようとした時だった。エリーゼのものでもヴォルフのものでもない声が、響いた。


「いたぞ! あそこだ……!」


 次いで、大勢の人間の足音が響く。ふたりの方を目指して、駆けてくる。その、先頭にいるのは──


(伯爵様……!)


 ヴァイデンラント伯爵だった。手勢を率いて、戻ってきてくれたのだ。これで大丈夫。これで、助けてもらえるはず。


 安堵に、ずっと張り詰めていた神経の糸がぷつりと切れた音が気がした。


「エリーゼ……!?」


 ヴォルフの声に申し訳なく思いながら、エリーゼの意識は闇に呑まれた。

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