終章
目覚め
柔らかく温かく心地よい──雲にでも沈み込んでいるような気分だった。
「ん……」
眠りから目覚める直前の、幸せなひと時だ。そう自覚して、エリーゼは寝具の中で伸びをしようとした。今はいったい何時なのだろう。閉ざしたままの目蓋には光が感じられるから、寝坊をしてしまったのかもしれない。
「あ、奥様……良かった!」
と、いまだぼんやりと寝惚けているエリーゼの耳に、少女の高い声が飛び込んできた。ミアの声だ。あの少女なら、寝坊をしたら叩き起こしてきそうなものだけど。どうして、今日に限ってはどこか弱々しい──泣きそうな、声なのだろう。
「お目覚めになりました! 旦那様をお呼びしてください!」
枕元を、ぱたぱたと軽い足音が駆け回る。寝室の外でミアに応じた声は、複数の人間のものだ。使用人たちが、扉の外に集まっていたのだろうか。誰も彼も、それぞれの役目で多忙なはずなのに。普段なら、わざわざエリーゼの目覚めを待つことなどないはずなのに。
(今日に限って……どうして……?)
「ミア……──っ」
小間使いの少女を呼び止めるため、起き上がろうとしたエリーゼの全身を激痛が襲った。半端な体勢で息を詰まらせた彼女に、ミアが駆け寄ってくる。
「奥様、お水を──あと、お薬も。とても痛いと思うんですけど、少しは楽になると思いますから──」
差し出された器に唇をあてると、冷たい水が喉を降りて身体に染み通っていく。全身の痛みと熱を、ほんのわずか和らげてくれる。そして、やっと思い出す。この痛みの理由、武器庫の炎、全身に火の粉を浴びていたヴォルフの、ひどい怪我。
「ミア……」
水に続けて飲み下させられた液体は、ひどく苦かった。けれど、舌先の苦みよりも、胸に広がる訳の分からない感情の方が、よほど苦く苦しかった。ミアに対してどんな顔をすれば良いのか分からないから。エリーゼが寝かされていたのは、ここしばらくでやっと慣れた、ヴォルフの屋敷の寝台だった。全てが夢だとさえ信じることができれば、いつも通りの朝のようにも見えたのに。
でも、目を伏せて微笑のような、けれど決してそうでない表情を浮かべるミアが、あの夜のことが現実だと伝えていた。それに、身体のいたるところで熾火のように燻ぶる痛みも。お互いに何も言えないまま見つめ合うこと数秒──やがて、ミアは深々とエリーゼに頭を下げた。
「奥様。本当に申し訳ありませんでした。でも……とにかく、ご無事で良かった。旦那様も、きっと安心されます」
「ミア。あれから何があったの? ヴォルフは、旦那様は──」
「直接お聞きになった方が良いと思います。あの、お話されてる間に、お食事を用意しますから」
それだけを言うと、ミアはぱっと立ち上がってエリーゼに背を向けた。声を掛ける暇も、止める暇もなかった。腕を上げようとしても痛みのせいでままならず、ただ、肌の大部分が湿布と包帯に覆われているのを確かめて愕然とする。痛みを訴えているのは、腕だけではない。顔も首も足も、身じろぎするだけで種類の違う様々な痛みが走る。気付けば、背を覆う長さだったはずの髪は、肩の辺りで切り揃えられていた。その他に、自分の身体がいったいどうなっているのか、鏡を見せてくれる気配さえなかったのは──それだけ、ひどい有り様なのだろうか。
(いえ、ヴォルフの怪我に比べれば……!)
身体に傷が残るくらいが何だというのだろう。夫と「お揃い」になるというだけのこと、ヴォルフなら傷を理由に彼女をうち捨てることなどしないはず。でも、それも彼が本当に無事であればこそだ。
悩み、恐れる時間は、ほんのわずかで済んだはずだ。寝室の外からミアのものではない重い足音が聞こえて、エリーゼは顔を上げた。扉が開くと同時に、会いたかった人が、彼女の寝台の傍まで駆け寄ってくる。
「エリーゼ!」
「ヴォルフ……!」
彼の声に、姿に、エリーゼの心は波立った。安堵。愛しさ。起きたばかりの姿を見られる羞恥に、自身の傷の程度が分からない恐ろしさ。それに何より、彼の頬に増えた火傷の痕。エリーゼと同じく首も手も、無事な皮膚が見えないほどの包帯で覆われている。最後に彼の姿を見た時の、爛れた皮膚や、赤く覗いた肉、滴る血を思い出すと、自然、エリーゼの唇から悲鳴のような吐息が漏れた。
「よく……無事で……」
ヴォルフは、それを聞いて穏やかに笑う。屋敷の中のことだからか、傷に障るのか、あの仮面はつけていない。素顔を見ることができるのは良いけれど、無事だった方の左半面にも赤い痕が広がっているのも、既に火に灼かれた方の左半面が、再びじくじくと滲む傷を刻まれているのも、痛々しくて見ていられない。なのに、彼はエリーゼに気遣い案じるような目を向けてくれるのだ。
「貴女こそ。三日も眠り続けていたから……どうなることかと」
「もっと早く目覚めるべきでした。お怪我は……どう、なのですか?」
自身の痛みを堪えながら手を上げても、ヴォルフに触れることなどできなかった。どれほどそっと触れたとしても、絶対に痛みを生じさせてしまうだろうから。
エリーゼが躊躇い、指先を宙にさまよわせるうちに、ヴォルフは彼女の枕元の椅子に掛けた。エリーゼの視線を感じたのか、白く包帯に覆われた手が、自身の頬を撫でる。
「見ての通り、満身創痍ではあるが。まあ、今さら幾つか傷が増えたところでどうでも良い。……と、貴女も思ってくれると良いが……」
「思います! 守っていただいたのですもの」
ヴォルフの目がわずかに不安げに陰ったのを見て、エリーゼは慌てて身を乗り出して訴えた。痛みに構ってなどいられない。彼女はひたすらに怪我の具合を心配し、心を痛めているだけなのだ。彼女のために、熱も炎も恐れずに立ち向かってくれた人のことを、どうして嫌ったりするだろう。傷痕を理由に恐れるとしたら、彼女の方だ。
「わ、私だって沢山怪我をしているようですから……似た者同士、お似合い……でしょう……?」
「貴女は変わらず美しい。安心して。髪はすぐ伸びるし、顔も……その、身体も。時間はかかるが、治るということだから」
恐る恐る、ヴォルフの顔を覗き込むと──彼がさらに顔を近づけ、額をこつりと当ててきた。近づく温もりに、あまりにも近い目の輝きに、頬が熱くなる。でも、とにかく、彼の瞳に映るエリーゼの姿には確かに大きな傷は見当たらなかった。
ヴォルフの静かな声と態度にようやく宥められて、エリーゼは肩の力を抜いた。彼との距離が縮まったことを幸いに、首を上下させてヴォルフの全身を、頭の先から爪先までじっくりと眺める。おずおずと手を伸ばして指先だけを、彼の顔の無事なところに触れさせる。そこから温もりを感じてやっと、得心して息を吐くことができた。
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